「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」(マックス・フリッシュ)の出典の文章を訳してみた。
「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」(マックス・フリッシュ)の出典の文章を訳してみた。
「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」について。
「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」。マックス・フリッシュ(Max Frisch 1911-1991)という、戦後スイスを代表する作家の言葉だ。
Max Frisch, 1911-1991
外国人労働者に関する言葉で、最近SNS等で目にする機会が増えた。出典が気になり調べてみた。
ちなみに、この言葉は原文では以下のように登場する:
Ein kleines Herrenvolk sieht sich in Gefahr: man hat Arbeitskräfte gerufen, und es kommen Menschen.
(ある小国の支配民族は危険を感じている。労働力を呼んだら、来たのは人間だったからだ。)
出典について
※お急ぎの方、本文へのスキップはこちらから。
元もとは、アレキザンダー J. ジーラー『私たちはイタリア人だ——スイスのイタリア人労働者との対話』(1965)に寄せた序文として書かれたもののようだ。Alexander J. Seiler, Siamo italiani -- Die Italiener. Gespräche mit italienischen Arbeitern in der Schweiz, (Zürich: EVZ, 1965).
その後、フリッシュ自身の単著『パートナーとしての公共圏』(1967)に「過剰外国化 1」というタイトルで再録されている。Max Frisch, "Überfremdung I", Öffentlichkeit als Partner (Berlin: Suhrkamp, 1967).
その後も、いくつかの論文集に再録され、いくつかのヴァージョンがあるようだ。
インターネットでは「ベルリナー・ツァイトゥンク」紙のウェブサイトで読むことができるが、全文かどうかは不明。Berliner Zeitung 8. Jan. 2005.
いずれも、日本語版は出ていないようだ。
今回は、原文の閲覧が容易な「ベルリナー・ツァイトゥンク」紙のウェブサイト版を訳してみた。
◯Der Schweizer Schriftsteller Max Frisch 1965 zum Thema Immigration: "... und es kommen Menschen" - Berliner Zeitung, 8.1.2005 - 00:00 Uhr
ドイツ語はまだ初心者なので、誤訳や、もっと良い訳し方がある部分も多々あると思うので、お気づきの方は忌憚なくご教示頂ければ幸いです。
「ベルリナー・ツァイトゥンク」紙ウェブサイトの文章は全体で1段落だが、以下の訳文では、読みやすさに配慮して、意味の切れ目で段落を切った。タイトルは「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」にした。
「我々は労働力を呼んだが、やってきたのは人間だった」
マックス・フリッシュ
ある小国の支配民族は危険を感じている。労働力を呼んだら、来たのは人間だったからだ。
彼らは繁栄を食いつぶしているのではない。それとは対極に、彼らは繁栄に必要不可欠な存在だ。しかし、彼らはそこにいるのだ。
出稼ぎ労働者(Gastarbeiter)か、それとも外国人労働者(Fremdarbeiter)か? 私の立場は後者だ。彼らはお金を稼ぐためにもてなされている客(Gäste)ではない。彼らは現在、自国では青信号を見出すことができないので外国で働いている。だからといって彼らを責めることはできない。彼らは違う言葉を話す。だからといって彼らを責めることはできない。彼らが話す言葉が、わが国の4つの公用語のひとつだとすればなおさらである。
しかし、このことは、より複雑な問題を産み出している。彼らは、非人間的な宿泊環境や高利の借金に不満をこぼし、まったくやる気がない。それは尋常ではない。しかし、彼らが必要なのである。
もしこの小国の支配民族が博愛と寛容で有名でなければ、外国人の扱いはもっと簡単だろう。彼らを小ぎれいな収容所に入れれば、彼らは歌うこともできるし、街の景観が過剰に外国化される(überfremden)こともないだろう。だが、それはうまくいかない。彼らは囚人ではないし、難民ですらないのだ。だから、彼らは店に入って来て買い物もするし、職場で事故にあったり、病気になったりすれば、入院もする。自分たちの国が過剰に外国化されたような気分になる。ゆっくりと、彼らは悪者扱いされるようになってしまう。
もし搾取されていると感じているのが雇い主のほうでなければ、搾取という言葉が使われる。彼らは毎年10億フラン貯めて国に送っていると言われている。核心はそこではない。あなただって貯めている。実際のところ、あなたは、その点で彼らを責めることはできない。
しかし、彼らはすぐそこにいる。先にも述べたように、労働力が必要だっただけなのに、人間が入って来たのである。しかも、彼らはただの人間ではない。違う人間、イタリア人なのだ。彼らは国境に列を成して立っている。恐ろしいことだ。
そろそろ、小国の支配民族とは何なのかを理解しなければならない頃だ。もしイタリアが国境を封鎖したなら、これまた恐ろしいことになるだろう。何をすべきか? 関係者が誰も喜ばない、関係する雇い主ですら喜ばない強制措置でも取らなければうまくいかない。
経済は繁栄しているが、国内に喜びはない。外国人は歌っている。4人で1つの寝室である。連邦参事会はイタリアの大臣による干渉を禁じている。結局のところ、外国人の皿洗いやレンガ職人や下働きやウェイターなどに依存していたとしても、独立しているのだ。ハプスブルク家からもEECからも独立している(と私は思う)。
とにかく大勢現れるのは、工事現場でもなく、工場でもなく、家畜小屋でもなく、厨房でもない。終業時、そして特に日曜日に、突如として大勢現れる。あなたのほうが目立ってしまう。彼らが違っているからだ。彼らが自分の国から女性を連れて来ることが許されない限り、彼らの目は女性たちに釘付けである。
私たちはレイシストではない。それは、私たちはレイシストではないという伝統であり、フランスの、アメリカの、ロシアの、そして言うまでもなく、「支援民族」(Hilfsvölkern)※という言葉を産み出したドイツの影響を受けながらも、この伝統は証明されてきた。
それでも、彼らは間違いなく違っている。彼らは小国の支配民族の固有性を脅かしている。しかし、自画自賛するつもりでもない限り、その固有性は書き換えられることになるだろう。そんな固有性なんかに他の誰も興味がないのだから。
※Hilfsvölkern:軍隊における外国人からなる補助部隊、外国人部隊を指す。
※当ブログ内の関連エントリー:
◯フランスの通信社AFPの記事「東京2020五輪キーマンの判事に対する苦しい言い訳」を訳してみました。
◯菅直人の脱原発フランス訪問に関する仏『ル・パリジャン』紙の記事を訳してみました。
◯伊藤詩織さんに関する『ル・モンド』紙の記事を訳してみました。
◯『ル・モンド』紙の『この世界の片隅に』評を訳してみました。
◯ル・モンド紙、震災と原子力ロビーに関する記事を翻訳してみました:「福島、罪深き沈黙」 "Fukushima, silences coupables", Le Monde, 26 Mars 2011
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