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2018年1月

翻訳:アーシュラ・K・ル・グウィン、ジブリアニメ『ゲド戦記』について語る(2006年8月19日)

◯翻訳:アーシュラ・K・ル・グウィン、ジブリアニメ『ゲド戦記』について語る(2006年8月19日)

 

宮崎吾朗監督のジブリアニメ『ゲド戦記』公開当時のアーシュラ・K・ル・グウィンのコメント。当時の訳です。

元記事:Ursula K. Le Guin: Gedo Senki, a First Response


ゲド戦記

『ゲド戦記』 (スタジオジブリ、宮崎吾朗監督によるアースシー映画)に対する初めての応答。映画についてお手紙を下さった日本のファンと、この件に興味のある日本以外のファンのために。

前もってひとこと:

ほとんどの著者は、映画スタジオによる自著の使用をコントロールすることはできません。一たび契約が結ばれると、その本の著者は制作に介在しない、というのが一般的なルールです。「クリエイティヴ・コンサルタント」などというレッテルは意味をもちません。本の著者に「どうして彼等は……?」なんて聞かないでください。著者も不思議に思っているのですから。

略史:

20年ほど前、宮崎駿さんがお手紙を下さり、アースシー本(当時は、そのうち三冊)を基にしたアニメ映画の制作に興味があるとおっしゃってくれました。私は彼の作品を知りませんでした。私はディズニー・タイプのアニメしか知らず、そういうものが嫌いでした。私は「ノー」と言いました。

6、7年後、友人のヴォンダ・N・マッキンタイヤーが『となりのトトロ』について教えてくれて、一緒に観ました。私はすぐに、そしてそれ以来ずっと宮崎ファンになりました。私は、彼を黒沢やフェリーニ級の天才だと思いました。

数年後、後期アースシー本の気のいい日本人翻訳者、清水真砂子さんが宮崎駿さんの知り合いだと判り、もしまだアースシーに興味があるなら、映画について喜んで話をしたいと宮崎さんに伝えてほしいと清水さんにお願いしました。

スタジオジブリの鈴木敏夫さんから感じのよいお手紙を頂きました。私は、ストーリーやキャラクターを極端に改変するという無知に対して強く釘をさしました。というのも、アースシー本は日本でも多くの読者によく知られているからです。映画づくりにおいて彼がイマジネイションを自由に発揮できるように、第一巻と第二巻のあいだの10~15年間の時期を扱ってはどうかと宮崎さんに提案しました。つまり、大賢人になったこと以外には、この時期にゲドが何をしていたのか私たちには判りませんし、宮崎さんの思い通りにできるということです。(私がこんな提案をする映画作家は他にはまずいないでしょう。)

2005年の8月に、スタジオジブリの鈴木敏夫さんが宮崎駿さんといっしょに、私と私の息子(アースシーの著作権を管理するトラストのオーナー)と話をしにいらっしゃいました。わが家でのとても愉しい訪問でした。

私たちに説明された内容は、宮崎駿さんは映画づくりから引退したがっている、ご家族とスタジオは駿さんのお子さんの吾朗さんにこの作品をつくらせたがっている、ということでした。吾朗さんには映画づくりの経験はまったくありませんでした。私たちはがっかりし、同時に心配でしたが、プロジェクトは常に駿さんの承認を受けることになっているという印象を私たちは受け、現にそう保証されました。このように理解して、私たちは合意しました。

その時点で、映画の作業はすでにスタートしていました。子供とドラゴンのポスターを一枚頂き、駿さんがかいたホート・タウンのスケッチと、仕上がったヴァージョンもスタジオのアーティストから頂きました。

映画づくりの作業はその後、極端な速さで進みました。私たちは、駿さんが映画づくりに一切参加していないことにすぐに気付きました。

私は、駿さんから、そして後に吾朗さんからとても感動的な手紙を頂きました。私はできる限りの返事をしました。

太平洋の両岸で、この映画づくりに怒りと失望がつきまとっていることを私は残念に思います。

私は、結局駿さんは引退しておらず、他の映画をつくっていることを聞かされました。このことは、私の失望を深めました。私はそんなことを受け入れたくありません。

映画

息子と私は映画のプレミアを東京に観に行けなかったので、スタジオジブリは親切にもコピーを送って下さり、2006年8月6日の日曜日にとあるダウンタウンの劇場で個人的に上映してくれました。嬉しい機会でした。多くの友人が子供を連れてやってきました。子供たちの反応が得られるのは愉しいものです。小さな子供たちのなかには、ビクビクしたりオロオロしている子すらいましたが、年上の子供たちは映画に対して冷ややかでした。

上映後、私たちは、息子の家に夕食をとりに行きました。コーギー犬のエリノアーは、鈴木敏夫さんが芝生の上で逆立ちをしたときも、行儀よくしていました。

宮崎吾朗さんが私の帰り際に聞いてきました、「映画、気に入りましたか?」 こんな状況で安易に答えられる質問ではありあせん。わたしは言いました、「ええ。あれは私の本じゃないわ。あなたの映画よ。いい映画だったわ」。

私は、彼とまわりの数人以外の誰にも話したつもりはありません。私は、私的な質問に対する私的な答えをできれば公開したくありませんでした。私がここでこんなことを言うのは、吾朗さんがこのことについて彼のブログで言及したからです。

ですから、15分間のあいだに起きたこと全部を先ほど公開した精神で、私は、あの映画に対する応答をもっと詳しく報告したいと思います:

映画の多くの部分は美しいものでした。しかながら、性急につくられたこの映画では、多くのシーンがカットされていました。この映画には『トトロ』の繊細な精密さも『千と千尋の神隠し』の力強く華麗な細部の豊穰さもありませんでした。

映画の多くの部分はエキサイティングなものでした。エキサイティングさは、暴力によって維持されており、本の精神と大いに反するものだと私は感じました。

映画の多くの部分は一貫していない、と私は思いました。その理由はおそらく、私のストーリーの中の人物と同じ名前をもつもののまったく異なった気質・歴史・運命をもつ人たちによって、混乱を招くようなかたちで演じられる全く異なったストーリーを鑑賞するあいだも、私は自分の本のなかのストーリーを見つけよう、追いかけようと努め続けてしまったからでしょう。

もちろん、映画が小説をなぞるように努める必要はありません――このふたつは異なった芸術であり、非常に異なった語りの形式だからです。膨大な数の変更もやむをえません。しかし、40年間も出版され続けてきた本にちなんだタイトルをもち、そういう本に基いている映画の中では、キャラクターや全般的なストーリーが忠実に守られていることを期待するのが道理というものでしょう。

日米双方の映画作家は、これらの本を、名前やいくつかのコンセプトを掘り出すための鉱脈のように扱いました。かけらや部品をコンテクストから取り外し、全く異なったプロットでストーリーを組み換え、一貫性と調和を欠いているのです。本に対してだけでなく読者に対して示された非礼が不思議に思えてなりません。

この映画の「メッセージ」は、いささか大雑把だと思います。なぜなら、本からきわめて忠実に引用されている場合が多いものの、生と死に関する見解やそのバランスなどは、本と同じようには、キャラクターや行動から導き出されていません。どう好意的に言っても、それらは、ストーリーとキャラクターのなかに示唆されていません。それらは、「自分のものになって」いません。ですから、それらは説教じみて見えるのです。アースシーの初期の三巻のなかのいくつかのセンテンスの片鱗はありましたが、そんなに大きく目立っているとは思いません。

本がもっている普通の感覚が、映画のなかでは混乱しています。例えばこういうことです。映画のなかのアレンによる父の殺害は、動機がなく恣意的です。闇の影あるいはもうひとりの自分によって行われたという説明には、説得力がありません。どうしてこの少年はふたつに引き裂かれているのでしょうか? 私たちには何の手がかりもありません。このアイディアは『アースシーの大賢人』から採られていますが、本では、ゲドがどういう経緯で、そしてなぜ彼を追う影をもつようになったか私たちは知っていますし、最後には、私たちはその影とは何なのかを知ることになります。私たちのなかの闇は、魔法の剣を振り回すことによっては取り除くことはできません。

しかし映画では、邪悪さは魔術師クモという悪漢のかたちでたやすく外部化され、簡単に殺され、このことによってすべての難題は解決します。

現代のファンタジーにおいては(文学的なものであれ政府によるものであれ)、人びとを殺すことが、いわゆる善と悪との戦争に対する通常の解決法です。私の本は、そのような戦争観に基いて表現されていませんし、単純化された問いに対する単純な答えを提供するものでもありません。

私は、私のアースシーのドラゴンたちのほうが美しいと思っていますが、吾朗さんのドラゴンが翼をたたむ高貴な様を素晴しいと思います。彼のイマジネーションか創り出す動物たちには優しさがあります――私は、ラマの表情豊かな耳が気に入っています。すきで畑を耕すシーン、水を引くシーン、動物をなだめるシーンなどを私は気に入っています。それらのシーンは、映画に地に足のついた実際の静けさを与えています――コンスタントな葛藤や「アクション」からペースを変える賢い変更だと言えます。これらのかなには、少なくとも、私のアースシーが確認できます。

肌の色の問題:

アースシーの人びとをほとんど有色人種にし、白人を周縁の後進的な人たちにした私の意図は、もちろん道徳的な意図であり、若いアメリカ人やヨーロッパ人の読者に向けたものです。ヨーロッパの伝統ではファンタジーのヒーローたちは、慣習として白人で――1968 年にはほぼ例外なくそうで――肌の黒さは悪と関連づけられることがしばしばでした。単純に見込みを覆えすために、小説家は先入観を切り崩すことができるのです。

アメリカのテレビ版のつくり手たちは、人種差別をしないと豪語する一方で、アースシーの有色人種の人数を1と2分の1にまで減らしたのです。私は彼らがアースシーを漂白したことに激怒し、彼らがそうしたことを許していません。

日本においては争点が異なります。私は、日本における人種という争点についてほとんど知りませんので、この点について云々することができません。しかし、アニメ映画というものは、そのジャンルのほぼ変更不可能な慣習にぶつかるものだということを私は知っています。アニメ映画に出てくる人びとのほとんどは――欧米人の目には――白人に見えます。日本の観客は異なった認識をすると聞きました。日本人には、このゲドが私の目に見えるよりも黒っぽく見えるとのことです。そうだと良いのですが。ほとんどのキャラクターが、私には白人に見えますが、少なくとも褐色やベージュの肌の人たちというバリエーションがありました。そして、テナーの金髪碧眼はその通り、というのも彼女はカーギッシュ諸島出身のマイノリティー・タイプだからです。

私たちはアメリカでいつ『ゲド戦記』あるいは『アースシー物語』を観ることができるのか?
それは、テレビ局とのテレビ版映画の放映権協定が切れる時、つまり2009年より前には無理でしょう。あぁ、こんなところにジャマ者が。

注:私たちに見せてくれたヴァージョンは字幕版で、英語吹き替え版ではありませんでした。スタジオジブリは秀逸な吹き替えを行いますが、一度でも日本語の声を聴くことができて嬉しかったです。ゲドの暖かくて、ダークなトーンは特に素晴しかった。そして、テルーが歌うかわいらしい歌は、映画が吹き替えになる場合もオリジナルのままのかたちで残して欲しいものです。


○Ursula K. Le Guin: Gedo Senki, a First Response
  http://www.ursulakleguin.com/GedoSenkiResponse.html

Copyright © 2006 by Ursula K. Le Guin
#96855
Updated Saturday August 19 2006


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放送停止中のAFNで流れているクラシックの曲名リスト

◯放送停止中のAFNで流れているクラシックの曲名リスト

 

"Due to the government shutdown, AFN services are not available."


Eagle, 810!
 

米軍放送・AFN(American Forces Network)が1月20日に放送を停止し、現在はクラシックのピアノ曲が流れている。

なかなかの珍事だ。

放送は、"Due to the government shutdown, AFN services are not available." (政府閉鎖により、AFNサービスはご利用頂けません)という男性のアナウンスとともにブラームス「ワルツ第15番変イ長調作品39-15(愛のワルツ)」から始まり、合計5曲のクラシックのピアノ演奏が流れ、これが繰り返されている。最後のサティ「ジムノペディ第1番」は途中で終わってしまうが、1周でちょうど10分になるようだ。

曲目リストは以下の通り:

放送停止中のAFNで流れているクラシックの曲名リスト

  • ブラームス「ワルツ第15番変イ長調作品39-15(愛のワルツ)」
  • ショパン「ワルツ第6番変ニ長調作品64-1(子犬のワルツ)」
  • モーツァルト「トルコ行進曲」
  • ベートーヴェン「エリーゼのために」
  • サティ「ジムノペディ第1番」

インターネットでも聴くことができる:

AFN 360 Internet Radio

"government shutdown"(政府閉鎖)とは?


 

ちなみに、アナウンスにある "government shutdown"(政府閉鎖)とは、次の予算の決議が難航することで執行中の予算が期限切れとなり、政府機関が閉鎖されること。

今回の場合は、ドナルド・トランプ政権下で、つなぎ予算の審議が難航し、2018年1月20日未明に暫定予算が期限切れとなった。これによりアメリカ連邦政府機関の一部が閉鎖され、そのなかにAFNが含まれている。

根拠法は、「不足金請求禁止条項(Antideficiency Act)」(合衆国法典31編1341条 The United States Code, Title 31, § 1341)。この法律は、連邦政府機関が、可決された予算以上の公金を超過執行したり、可決されていない予算を先取り執行したり、無給労働に基づいて行政活動をおこなうことを禁止している。

U.S. GAO - Antideficiency Act(アメリカ合衆国会計検査院公式サイト、英語)
※不足金請求禁止条項概説。

U.S.C. Title 31 - MONEY AND FINANCE(アメリカ合衆国政府印刷局、英語)
※不足金請求禁止条項全文。


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伊藤詩織さんに関する『ル・フィガロ』紙の記事を訳してみました。

◯伊藤詩織さんに関する『ル・フィガロ』紙の記事を訳してみました。

 

伊藤詩織さんに関する『ル・フィガロ』紙の記事を訳してみました。

元記事:Régis Arnaud, "L’affaire de viol qui secoue le Japon ", Le Figaro, 28 Dec 2017

誤訳がありましたら、忌憚なくご教示下さい。悩んだところが1箇所あります(詳細は、下記訳註参照)。

* * *

日本をゆるがすレイプ事件

権力に近い男性に暴行されたある女性ジャーナリストが、その事実を知らしめ、社会のタブーを糾弾するために戦っている。

レジス・アルノー(東京)

セクシャルハラスメントに反対するSNS上の世界的な動き#MeTooは、日本では「お前は違う」と翻訳されているのだろうか? 日本でニュースになっている「詩織さん事件」を見ていると、そう思えてしまう。ロイター通信で働く若手女性ジャーナリスト伊藤詩織は、5月の末、安倍晋三の伝記作家が2年前に彼女に薬を飲ませてレイプしたと公の場で糾弾した。この若い女性によれば、極右ジャーナリストとして有名な山口敬之とのレストランでの「仕事上の」夜の会食の途中に突然気を失い、数時間後にレイプされている最中に目を覚ます。この被害者女性によって提供された詳細は(レイプ犯と目されるこの男性は彼女に「パンツぐらいお土産にさせてよ?」と要求したようだ)、彼女の証言の信憑性を非常に高めている。

すると、所轄の警察署は、彼女に告訴を思いとどまらせることができないとなると、事件の捜査に取りかかり、証人に事情聴取を行う。担当検事は、捜査が終わると山口敬之の起訴を決定する。しかし、急展開が起こる。警察が空港で彼の逮捕に備えているとときに、これまた首相に極めて近しい刑事部長から出し抜けに一本の電話が入る。刑事部長は逮捕を中止し、数ヶ月後の驚くべき不起訴へとつながる。担当刑事は、日本の手続きの慣習とは極めて対極的なそのような決定が下されたことを認めている。

捜査過程での恥辱の数々

伊藤詩織が好戦的でなければ、事件はそこから進展していなかったであろう。山口敬之は、弁明の手記というかたちで、極右雑誌に記事を発表した。被害者として、伊藤詩織は、6か月の間、自分自身に関するこの事件の取材を続けながら事情聴取を受けた。「私はジャーナリストです。私の個人的な事件は全く重要ではなく、これで社会を変えることができます」と彼女は『ル・フィガロ』に説明する。彼女は、主要な関係者を見つけ出してはインタビューし、究極のタブーである自身の物語を週刊誌に発表し、顔を隠さずに記者会見を行い、自分自身の事件について公表した。刑事事件化が消滅すると、この女性ジャーナリストは、彼女を暴行したと目されるこの男性を民事で訴え、この事件を扱った国内外のメディアの取材に応えている。

伊藤詩織の前の勤務先であるロイターは、この事件を大きく取り上げることができたかもしれないが、この通信社は、訴訟のリスクがあるので沈黙したままである。伊藤詩織の元同僚は、「ロイターは訴訟のリスクを望んでいません。それに、世界の私たちの視聴者にとっては、これはひとつのレイプ事件に過ぎません」と認めている。

この女性ジャーナリストは、『Black Box』という本を出版したばかりだ。この本の中で彼女は、日本の捜査過程で受ける屈辱について、例えば、不信感、必要のない立ち入った質問、複数の警察官の前での空気人形を使ったレイプの再現などの恥辱について語っている。

東京でレイプされたフランス人女性の事件を担当したことのあるフランス大使館付きの元警務官は次のように明かす。「日本の警察官のレイプ事件への対応は、30年前のフランスの警察官のようです。私が関わった事件では、そのフランス人が薬を飲まされたことが彼女の責任にされました。今日では、このような訴えを受けたフランスの警察官は、まずは若い女性に同情的に接し、その後で初めて話の真偽を確かめます。日本ではそうじゃありません」。

詩織さん事件によって、安倍晋三政権下の日本の公的自由に衝撃が走る。とりわけ、彼女は日本の#MeTooの波の、あるいは日本社会の女性の地位、少なくとも性的暴力といった、非常に過小評価されている問題に関する波の端緒となった。

伊藤詩織は、男性よりも社会的地位の低い女性が告発の主体となることがめったにない社会に対峙している。彼女は、胸元までボタンの開いた普段着で記者会見をおこなったことをツイッター上で叱責された。「私と親しい人たちのなかには、私から離れて行ったひともいます」と彼女は明かす。マスコミは、ハラスメントを行ったと誤解して男性たちを非難する若い女性たちを「ハニートラップ」と連呼する

日本人女性たちはまた、社会における自分自身の地位について概して保守的な見方を共有している。伊藤詩織と同世代の女性たちの大半は「男性と一緒に食事をして食べるのが遅いと、まずは自分が悪いと思わなければならない」とこぼす。「日本人女性たちはマッチョです。彼女たちは、このような行動で苦しんでいる同じような女性たちに同情しません」と佐々木くみは嘆く。

この若く聡明な日本人女性は、学生時代に公共交通機関のなかでほぼ毎日のように体を触られる被害にあった受難についての著書 Tchikan(痴漢)をフランス語で出版したばかりだ。広く存在すると同時に隠れた社会現象だ。世界中がこの言葉を知っているにもかかわらず、被害者によって日本語で書かれた本は一冊もない。「私の本を批判してくるのは……この本の噂を聞きつけた日本人だけです。彼らは、私が日本のイメージを貶めていると思っているのです」。穏やかに暮らすためにフランスを選んだ佐々木くみは、口惜しく思っている。

※元の記事では "La presse s’est fait l’écho des « ho­ney trap », ces jeunes femmes qui ac­cusent à tort les hommes de harcèlement." そのまま訳すと「マスコミは「ハニートラップ」と連呼する。ハラスメントを行ったと誤解して男性たちを非難する若い女性たちのことである」となり、事実と違うと思います。

※当ブログ内の関連エントリー:

伊藤詩織さんに関する『ル・モンド』紙の記事を訳してみました。

『ル・フィガロ』紙の『この世界の片隅に』片渕須直監督のインタビューを訳してみました。


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伊藤詩織さんに関する『ル・モンド』紙の記事を訳してみました。

◯伊藤詩織さんに関する『ル・モンド』紙の記事を訳してみました。

 

伊藤詩織さんに関する『ル・モンド』紙の記事を訳してみました。2017年10月30日の記事です。

元記事:Philippe Mesmer, "Le combat de Shiori Ito, agressée sexuellement dans un Japon indifferent", Le Monde, 30.10.2017

元の記事では、人名への言及の際、フルネームは敬称略、苗字あるいは下の名前のみの場合は敬称付きとなっていますが、日本語としては不自然な印象を与えるのですべてに敬称を付けました。

誤訳がありましたら、忌憚なくご教示下さい。警察・司法関係の用語にはやや自信がありません。

* * *

伊藤詩織の戦い 無関心な日本で性的暴行を受けて

女性ジャーナリストが、レイプ被害を受けた後、宣戦布告する一冊の本を著した。彼女は提訴したにもかかわらず、加害者と目される人物が司法の判断を受けることはなかった。

フィリップ・メスメール(東京特派員)

日本は#MeTooの瞬間を経験しようとしているのだろうか? アメリカ人女優アリッサ・ミラノさんが、セクシャル・ハラスメントや性的暴行の被害者となった女性たちに「問題の広がりを知らせる」ことを促すために考え出したハッシュタグだ。ツイッター上でこれを取り上げる日本人もいるが、動きは限定的なものにとどまっており、日本のメディアにおけるハーヴェイ・ワインスタイン事件の取り上げ方と全く同じだ。この事件をきっかけに、ミラノさんがハッシュタグなどを思いつき、イタリア人女優アーシア・アルジェントさんが性的暴行に対する困難な非難のなか身を投じることにもなった。

しかしながら、日本は日本自身の悲劇から免れることはできない。そして、勇気を出して声を上げる被害者は極めて少ない。フリージャーナリストの伊藤詩織さんは、特に「性的暴行の被害者に敵対的に機能する法的社会的システム」の改善を訴えるために、それを実行することを選んだ。被害当事者として、彼女は、性的暴行後の宣戦布告の本『Black Box』(文芸春秋、未仏訳)を書くことを選んだ。

「そんなことをしたら、あなたのキャリアに傷が付く」

10月24日、彼女は東京の日本外国人記者クラブ(FCCJ)で記者会見を行った。元TBS記者で、同局元ワシントン支局長、安倍晋三首相とも親しく、彼の伝記の著者でもある山口敬之氏が、夕食をとったあと東京のシェラトン都ホテルで意識を失った状態の彼女を暴行した2015年4月3日の悲劇的な夜に戻る機会となった。

提訴することを決心した詩織さんは、警察の躊躇に直面する。警察は、彼女の行為をやめるよう説得しようとする。「この手の事件の届け出は度たびあるが、これらの事件の捜査は難しい」と複数の警察官が彼女にはっきり言った。あるいは「そんなことをしたら、あなたのキャリアに傷が付く」とも。

彼女はやり通し、ついに捜査が開始される。集められた証拠、ビデオの録画、DNAサンプルによって、逮捕状を取得することはできるものの、警察官が山口氏逮捕の手はずを整えたいたその日に、逮捕の実行に介入する命令が下される。

『週刊新潮』によると、当時の警視庁刑事部長で現在は組織犯罪対策部長の中村格氏によって命令は下された。菅義偉内閣官房長官の秘書官も務めたことのある、安倍氏とも近しい人物として知られる有力者である中村氏は、『週刊新潮』によると、逮捕を実行するなという命令を受けたことは認めたが、政治権力の介入は否定した。

提訴する被害者はわずか4%

伊藤詩織さんは起訴したが、失敗に終わり、9月に不起訴となった。山口氏は常に、「決して違法行為は行っていない」、中村格氏のことは知らないと断言していた。この件は今や法的手段という形を取り、彼女の名誉は「いくつかのメディアによるこの事件の扱いによって深刻な影響を受けている」。

「レイプの被害者になったことで、この社会では被害者の声を聞いてもらうことがいかに難しいかがわかりました」と詩織さんは明言する。彼女はさらに、もし彼女がジャーナリストじゃなかったらおそらく断念していただろうということも知っている。

彼女が公表するという選択をしたことで、日本における性的暴行の扱いがもつ問題が再燃した。このような事実を明るみにするという行為は、日本では非常に傷となることなので、わずか4%の被害者しか提訴しない、と『性犯罪・児童虐待捜査ハンドブック』の著者である弁護士の田中嘉寿子さんは嘆く。現在入手可能な最新の数字である、法務省の2012年の統計では、5年間で起きた性的暴行のうち、わずか18.5%しか警察に被害届が出されていない。逮捕された場合でも、53%の事件で被告人は罪を免れている。

3月に、複数の男性が薬を飲ませて2011年に起こしたあるレイプ事件の被害者女性が勝訴した。しかし、彼女の刑事告訴は棄却されたため、民事訴訟を起こさなければならなかった。

小さな勝利

伊藤さんは小さな勝利をつかんだ。5月の末に自身の被害を初めて公表したことで、ツイッターアカウント @uenshiori(伊藤詩織さんをすごく応援する会)が作られるきっかけとなり、彼女が標的となった攻撃を多少なりとも和らげることになった。また間接的には、国会審議終盤の6月18日に可決された、1907年以来初めてとなる刑法の性犯罪に関する条文の改正を加速させた。

別の団体や個人——13歳の時に父親から性的暴行を受けた山本潤さんも含まれている——の支持を受けた新しい条文は今後、捜査を求めるために被害者自身が告訴する必要がなくなり、これを第三者が行えるようになる。そして、適用可能な刑罰が、改正前の3年から今後は5年となる。

不幸なことに、被害者の側が必ず、攻撃や圧力や脅迫や暴行があらゆる種類の抵抗を難しくしたという証拠を提出しなければならない、と伊藤さんは嘆く。彼女によれば「問題なのは、スウェーデンで行われた調査によるとレイプ被害者のおよそ70%が体が動かない状態に陥る」。これは、危険を前にして全身が固まってしまう防御行動だ。

新しい法律には、加害者のための更生プログラムに関する更なる見通しは全くない。「もし私たちがこの問題に対して更なる認識を持つことができれば、あと110年待たなくても条文を改正できるかもしれない」と伊藤さんは期待している。

※当ブログ内の関連エントリー:

『ル・モンド』紙の『この世界の片隅に』評を訳してみました。

翻 訳:仏ル・モンド紙「福島:日本の司法、反原発運動家を訴追、東電を無罪放免」:"Fukushima : la justice japonaise poursuit les antinucléaires et blanchit Tepco", Le Monde, 12 septembre 2013

ル・モンド紙、震災と原子力ロビーに関する記事を翻訳してみました:「福島、罪深き沈黙」 "Fukushima, silences coupables", Le Monde, 26 Mars 2011


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