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『リベラシオン』紙の『この世界の片隅に』片渕須直監督のインタビューを訳してみました。

◯『リベラシオン』紙の『この世界の片隅に』片渕須直監督のインタビューを訳してみました。

※訳注を付けました。(2017年9月16日)

 

『リベラシオン』紙の『この世界の片隅に』片渕須直監督のインタビューを訳してみました。

元記事:Sunao Katabuchi : «Le but d’un film d’animation, c’est d’accéder à une réalité qui nous échappe», Liberation.fr, 6 septembre 2017.

誤訳がありましたら、忌憚なくご教示下さい。

* * *

片渕須直「アニメーション映画の目的は、私たちが見逃している現実にたどり着くこと」

モーリス・シャピュイ

日本の映画監督が、広島の若い主婦の人生についてのマンガのアニメ化である『この世界の片隅に』の制作を振り返る。広島の港町に暮らし日本の主婦の日常生活を注意深く再現し、同時に戦時中には歓迎されない想像力を押し殺そうとする女性を描いた『この世界の片隅に』は、繊細さと甘くて苦いトーンが際立ったマンガ(現在 Kana から発売中)を絶妙にアニメ化した作品である。『リベラシオン』は、現在威57歳で、今作が彼の長編作品の3作目となる、監督・片渕須直に話を聞いた。80年代に宮﨑駿と高畑勳の傍らで開始したテレビシリーズでの人知れぬ長い経歴をもつ人物。マンガ家・こうの史代の精神・視覚的実験への欲求(口紅で絵を書くなどの)への共感、自立したヒロイン像の飽くなき探求、『魔女の宅急便』をめぐるかつての遺恨について語る。

—雲というモチーフは、日本のアニメーションでは頻繁に用いられるものです。宮﨑作品、細田守作品、あなたの過去の映画ででもそうです。今回の作品でも、雲は、若い娘が空を物憂げに見上げるオープニング・クレジットと、爆弾が広島に投下される映画のクライマックスにも登場しますが……。

多くの場合、空と雲は自由、自由の約束の象徴です。『この世界の片隅に』冒頭のクレジットで、雲は、地面から見たものであることに気付くでしょう。これは、例えば宮﨑監督の映画の雲の場面とは根本的に違います。この場合、雲に手は届かないし、雲は遠くにあり、奪われた願望の対象なのです。クレジットといっしょに、すずさん(主人公)のもとを離れてゆく自由の到達不可能な性質を補強する悲しい音楽が流れます。2010年の映画の準備開始から、どのようなオープニングにしたいかハッキリ解っていました。そこでは、視点は地面に固定されていて、この若い娘は雲に手が届かないし、目をそらすこともできないことが解ります。この映画は、空が解放の象徴として登場するすべての日本映画へのアンチテーゼです。まずは、私の前作『マイマイ新子と千年の魔法』を例にとりましょう。この作品では、主人公である幼い女の子の想像力を通して、雲の上からの視点で見るシーンがありました。この場合の雲は、想像力が非常に豊かで、夢想するにはかなり重苦しいコンテクストに縛られた登場人物の目から見たものです。そのことは、戦争が始まれば、想像力も無力だということを示しています。それは、私にとってとても大事なテーマです。つまり、想像力は何を救うことができるのか、そして、人はどのようにして大人になるのか? それは『アリーテ姫』[編註:2000年の発表以来、フランスでは未公開。@AnimeからBlu-rayが近日発売]以来、私の映画の中で繰り返されます。

—『この世界の片隅に』は、そのような緊張感で、建築物や日常のしぐさの綿密な再現や、良き妻になり、義理の家族になじみ、忠実な市民になるために、はるかなる幻想を呼び起こすことで自分を抑制しなければならないすずを通じて、非常に高度なリアリズムの世界へ旅立ちます。

すずさんは、想像力豊かな若い女性です。このように幻想を呼び起こすことは、彼女にとって、戦争から逃がれ、現実逃避する手段です。しかし、そのことは、その時代にとっては許容できないもので、戦争によって犠牲になるものです。彼女の想像力は、絵というかたちでふんだんに登場しますが、義理の家族には決して見せません。すずさんの妹だけが絵を見ることができます。現実には、戦争は進行し、絵に描けないほど激化しています。おそらく、最終的には、この想像力の必要性は大した役には立たない……。いずれにしても、彼女は自分の想像力にどんな意味があるのか分からない。そこには、私たちの存在にいったい何の意味があるのかという自問へ導く一種の問いかけがあります。しかし、おそらく、すずさんは、平和になっても自分に同じ問いを投げかけることになるでしょう……。

—あなたが、映画の中で、かなりの長い間、戦争を遠くのものとして描いている間、1時間以上の間、戦争は、遠くの爆音や配給票やプロパガンダというかたちでのみ登場します。しかし、これは、従属させられるひとりの女性の運命ですよね……。

まったくその通りです。この描写は、戦争の10年前でもまったく当てはまるでしょう。

—監督は、細部に多大なる注意を払っているように見えます。

アニメーション映画の目的は、私たちが見逃している現実にたどり着くことです。私は、旅をするために、たどり着くことのできない場所を訪ねるために、新しい日常を発見するために監督になりました。私自身の想像力は、その目的に達するには必ずしも十分ではありません。『マイマイ新子と千年の魔法』では、映画のある部分は封建時代以前の日本で展開します。というのも、私自身が、時代をさかのぼってその時代を訪れてみたいと思っているからです。それはタイムマシンです。さて、私は必ずしも1945年に飛び込んでみたいとは思っていませんでしたが、その時代の人びとのことを知りたい、彼らの暮らしや環境がどんなだったか見てみたいと思っていました。この場合、想像に意味はありません。事実と細部が必要です。

—映画の原作マンガを描いた、こうの史代さんと資料を共有をしたりしていますか?

私は、『マイマイ新子と千年の魔法』を監督するために、たくさんの資料を調べましたし、たくさん旅もしました。そして、マンガ『この世界の片隅に』を見つけたのは、まさにその旅の途中です。その本はその数年前に出版され、かなりの好評を得ていました。その作者・こうの史代さんは、『夕凪の街 桜の国』を完結させていました。この作品は、ヒロシマ以降の日常を扱っていて、マンガの質の高さを見もしないでしつこく批判する人たちがいましたが、これまでのものとは全く違った作品でした。彼女は、この本が膨大なエネルギーを要したのに対して、そのような受け止め方をされたことに非常に苦しみました。彼女は非常に傷ついて、回復のために数年のあいだ休業するほどでした。無気力に直面して、彼女はすべての資料を箱にしまって、原稿の何枚かは折り紙にして、折り鶴にするほどでした。そんな時ですから、2011年にやっとお会いできた時には、資料を見せてくださいとはとても言えませんでした。映画の制作が始まって1年近く経っていたというのに……。でも、おそらくそれが良かったのか、本を読みあさったり、その時代にかかりっきりになったりして、自分自身で調査を始めることになりました。例えば、映画の冒頭に出てくる街並はマンガには出て来ません。

—戦争が始まる様子がとても具体的なシーンもあります。すずが警報を聴いて、高角砲が稼働し、そして飛行機の海が現れる。そのような恐怖の瞬間に直面して、すずの幻想が発揮され、彼女は薔薇色や青や黄色の爆発を目にして、マンガには出てこない台詞をつぶやきます。「ここに絵の具があれば……」。

実際、あの色は幻想では全くありません。マンガは白黒なので見えませんが、飛行機の煙にはちゃんと色が付いていました。軍隊は、どの飛行機が撃ったかを知るために色を付けていました。映画に出てくる呉の空襲を目撃した人たちは、空が色とりどりになったとおっしゃっています。それに加えて、アメリカの爆撃機のひとつ・B29の銀色の煙の美しさを褒めたたえる人もいました。このシーンとすずさんの口を通して私が語らせた言葉は——そのフレーズはマンガには出て来ませんでしたから——あのようなものになりました。美意識には良いも悪いもないのです。美意識は日常生活の対極にあるものですし、限界もありません。これは、私がさっき言ったことと矛盾しているように思えるかもしれませんが、あの時代、戦時中には、人びとはグレーな世界を生きていました。そしてその時代の苦痛にもかかわらず、爆弾や荒廃にもかかわらず、こうのさんは、生活の回帰と日常生活の美を褒め讃えています。
※訳註:記事では「飛行機の煙」(la fumée des avions)、「どの飛行機が撃ったかを知るため」(pour savoir quel avion tirait)となっていますが、実際には、色が付けられていたのは「高角砲の煙」で、「どの砲が撃ったかを知るため」が正しいようです。ちなみに帝国海軍では、高射砲のことを「高角砲」と呼んでいたそうです。

—すずの想像力は、こうの史代の原作でも、画像のインサートとして登場します。これを映画にするのは難しかったでしょうか?

はい、マンガの『この世界の片隅に』は、考えられるよりもはるかに実験的です。すずさんが爆撃の時に失った右手の人生を想像するすべてのシーンを、こうの史代さんは口紅で描いています[訳註:描画が太く、荒々しい熱っぽさを帯びている]。事故後、右手を失ったショックを具体化するために、こうのさんの描画は、不安定で、ほとんど不器用なくらいになります。そこでは、すべての背景が左手で描かれているのです。彼女は、それを出版可能な範囲に留めることができるぐらい熟練していましたが、なんと勇気のあることでしょう! したがって、私も同じように、作画担当者たちにこのシーンを左手で描くように頼みました。実験に対するこうした欲求でも、私はこうの史代さんに引きつけられました。もし長編アニメーション映画でも実験的になることができないとしたら、エンド・クレジットは同じように口紅で描かなければならなかったでしょう。まぁ、どうか最後まで待っていてください。

—この映画を監督した環境について、他にも振り返って頂けますか? 今作は、スタジオMAPPA初の長編作品で、日本のアニメーションでクラウフドオファンディングを使った珍しい例だと思います。

戦争についての映画をつくりたい、主人公は主婦だと説明した時、スポンサーは集まりませんでした。高校生のヒーローが出てくる映画をつくるほうがはるかに簡単です。しかし、観客の考えは映画業界とは違っていて、クラウドファンディングで目標額の倍の金額を集めることに成功しました。それでも小規模なスタートでした。わずか4人、数平方メートルのアパートでのスタートでした。クラウドファンディングではプロジェクト全体の10%しか集まりませんでしたが——それだけでまかなえるとも思っていませんでしたが——それはプロジェクトに信用を与えました。そして最終的に、映画は非常に好評で、アニメになじみのないかなり高齢の観客の心にも届きました。スタジオMAPPAは、この映画のために作られたと言ってもよいぐらいです。『この世界の片隅に』の前にいくつもか連続アニメを発表していましたが、この映画の制作に堪えるために、かなりの組織固めをしなければなりませんでした。
※記事では <<Les producteurs>>(プロデューサー)ですが、日本の他の記事では、この話のこの部分は「スポンサー」になっているので「スポンサー」を使いました。

—演出補佐としてクレジットされている『魔女の宅急便』についてお話し頂くことはできますか? 宮﨑駿監督が再度手がけることになる前は、もともとあなたが監督する予定でした。

宮﨑さんとの付き合いはとても長く、スタジオジブリ設立以前はよく一緒に仕事をしました[編註:ふたりは『名探偵ホームズ』で一緒に仕事をし、片渕は宮﨑のもとで長きに渡って脚本家を務めた]。しかし、私たちふたりは、まったく違うタイプの監督でしたし、ある時点で、私は自分の道を進まなければなりませんでした。『魔女の宅急便』については、宮﨑さんは立ち上げの時点ではまだ監督ではありませんでした。この作品で、私を監督に指名したのは宮﨑さんです……。しかし、何らかの理由で、宮﨑さんは、自分が監督しなければならないと感じました。でも、もし『魔女の宅急便』の物語が、自立を獲得する幼い女の子の話ならば、私にとって全くなじみのない話というわけじゃない(笑)。その物語と、『アリーテ姫』から『この世界の片隅に』までその後私が語って来た物語とのあいだにはつながりがあります。そして、『魔女の宅急便』制作のあいだに、監督以外の立場で仕事をするのはこれが最後だということがハッキリしました。その結果が『アリーテ姫』で、2000年に公開されました。私自身の作品を監督して独り立ちするまで10年以上かかりましたが、自立するとはそういうことです。

※当ブログ内の関連エントリー:

ロサンゼルス・タイムズ紙のケネス・トゥーランによる『この世界の片隅に』評を訳してみた。

『ELLE』誌フランス版の『この世界の片隅に』のレヴューを訳してみました。

『ル・モンド』紙の『この世界の片隅に』評を訳してみました。

『リベラシオン』紙の『この世界の片隅に』評を訳してみました。

『ル・フィガロ』紙の『この世界の片隅に』片渕須直監督のインタビューを訳してみました。

 


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コメント

はじめまして。貴重な翻訳をありがとうございます。たいへん興味深く読ませていただきました。

ところで、内容について若干の疑問がございます。

> 回復のために数年のあいだ休業するほどでした。

こうの先生は休業はなさっていません。この時期は仕事をだいぶ減らしましたが、エッセイや4コママンガの連載などを続けていました。
ただ、昔のようにはマンガが描けなくなってしまったのは事実で、2009年に古事記のマンガの連載を開始したが中断ということがありました。2年後に描ける感覚が生まれてきて、別の出版社で再連載したのですが、片渕監督が言っていたのはおそらくそのことではないでしょうか?

> 原稿の何枚かは折り紙にして、折り鶴にするほどでした。

こちらもちょっと考えにくいです。こうの先生は作品は発表後は読者のものだというスタンスだそうですし、これらの作品の原画展もしばしば開催されています。
ただ、下書きをたくさんの折り鶴にして読者プレゼントにしていた時期があったそうなので、おそらくそのことではないでしょうか?
http://6404.teacup.com/kouno/bbs/5167
> その後「桜の国」の下描きでも確か1400羽ぐらい折って、そっちは読者さんに配りました。
桜の国 折り鶴 こうの - Twitter検索
https://twitter.com/search?q=%E6%A1%9C%E3%81%AE%E5%9B%BD%20%E6%8A%98%E3%82%8A%E9%B6%B4%20%E3%81%93%E3%81%86%E3%81%AE&src=typd

> 2011年にやっとお会いできた時には、資料を見せてくださいとはとても言えませんでした。
こうの先生は戦争ものをもう描きたくないので、資料のほとんどは手放してしまったそうです。だから(残っているものがあれば)片渕監督に渡せばちょうどよかったはずなのですが。
http://gigazine.net/news/20161127-konosekai-talk-osaka/
> 私も呉に寄付したものがありますよ。「もう描かない」という意思表示のために、手元からほとんどなくしちゃってます。
またこうの先生は2011年2月に、戦争ものに関するほとんど丸一日のインタビューを受けています(所収『複数のヒロシマ』)。それに比べたら資料を見せるのはずっと簡単なはずで、なぜ片渕監督が「とても言えなかった」のか、これもよくわからない話です。


以上、疑問点を書かせていただきましたが、はっきり答えの出せない話ばかりですみません。いずれにせよこの記事の翻訳の価値が減じるものではないと考えております。
長文失礼しました。

投稿: 名無しさん | 2017年10月29日 (日) 01時09分

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