アブデラティフ・ケシシュ[監督]『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)を観た。
○アブデラティフ・ケシシュ[監督]『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)を観た。
※少し加筆・修正しました。(2014年9月7日)
アブデラティフ・ケシシュ[監督]『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)を観た
池袋・新文芸坐
アブデラティフ・ケシシュ[監督]『アデル、ブルーは熱い色』La vie d'Adèle – Chapitres 1 et 2(2013年)を観た。池袋の新文芸坐。いつもと客層が違う(笑)。
女子高生のアデル(アデル・エグザルホプロス Adèle Exarchopoulos)が、美術学校に通う青い髪の少女・エマ(レア・セドゥ Léa Seydoux)に出会い、恋に落ちるという同性愛の話。R18+。
4月の封切り時はノー・マークだったけれど、今年観た映画暫定2位に急浮上。
上映している劇場は少なくなったけれど、まだある。東京の場合、池袋・新文芸坐での上映は2014年9月7日(日)で終りだけれど、キネカ大森で9月20日(土)~9月26日(金)に上映される。未見の人は是非。
ヘテロな九州男児のオレですら、帰り道の切ないこと切ないこと。
あと、ボロネーゼが食べたい。
"Dans la cuisine Maman épluche un oignon."——書けたよ、先生! "oignon"(玉ねぎ) って単語、久びさに見たなぁ。
アブデラティフ・ケシシュ[監督]
『アデル、ブルーは熱い色』(2013年)予告編
原作は、ジュリー・マロ(Julie Maroh)のコミック(BD)、『ブルーは熱い色』
「なんだよ、フランスのやおいか?」と興味を失った人も、「何ですと〜!? フランスのやおいですと〜?」と興味をもってモニターに何cmか近づいた人も、どちらも必見。
この映画は、社会学・ジェンダー論に興味のある人から、映画好きな人、やおいずきな人、レズビアンの人、フランス美女が組んずほぐれつするレズ・プレイを見たいだけの男まで、誰でも愉しめるはず。「そんな言い方は作品への冒瀆だ!」と怒ってはいけない。素晴らしい作品とは、様ざまな人が、様ざまな位相で鑑賞することができるものである。
主人公のアデルが魅力的
なんと言っても主人公のアデルは、ちょっと口元がだらしないけれど、表情豊かで愛嬌があり、とても魅力的。全体的に、アデルのアップのシーンが多いのだけれど、彼女が画面に映っているだけで映画が成立する感すらある。
この映画のあらすじそのものは極めて単純だ——ふたりが出会って、すれ違って、片方が浮気をして、別れる。話の構造は、同性愛/異性愛の違いに関係ないとも言える。ラヴ・ストーリートとしては陳腐とすら言える話を、アデルの表情と存在感が見事に肉付けしている。
主演のアデル・エグザルホプロスとレア・セドゥは、2013年の第66回カンヌ国際映画祭で、演者として史上初のパルム・ドール(Palme d'or)を受賞。最高賞のパルム・ドール受賞作は他の賞を受賞できないため、審査委員長のスティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg)が、ふたりの主演女優にも特別に授与した。当時19歳のアデル・エグザルホプロスは、パルム・ドール最年少受賞者となった。
Lykke Li, "I Follow Rivers (The Magician Remix)" (2011)
例の歌です。スウェーデンのアーティストの曲で、ヨーロッパ中心に大ヒット。日本では未発売。
社会的なテーマを女の人生として描く
この映画は、「同性愛」「セックス」「ジェンダー」といったテーマを、運動家のスローガンとしてではなく、フランス語の原題が示す通り、アデルという女の人生(La vie d'Adèle)として描いている。
ただし、後述するように、この映画が社会的なテーマを描いていないわけではない。アデルとクラスメイトたちがデモに参加してシュプレヒコールを上げるシーンがあり、そのシーンにはCGT(Confédération générale du travail=労働総同盟)の一団がほんのワン・カットだけ挿入されたりもする。また、アデルとエマがゲイ・プライドに参加する様子も映し出される。このように、階級とジェンダーについての登場人物のポジションが示される。
また、ストーリー展開の主要な動因にはなっていないが、アデルが食べるケバブ、アデルがつくるブリック、幼稚園のお遊戯の曲など、多文化主義的な要素が背景としてそこかしこにちりばめられている。
肉体的快楽
この映画の興味深い点は、肉体的快楽が大きくフィーチャーされている点である。晩期フーコー的かもしれない(なんつって)。
作品序盤では、このことは、アデルの食欲と、先述の少しだらしない口元で暗示される。
なによりも強い印象を与えるのは、アデルとエマが初めて結ばれる場面で、正確に時間を計測したわけではないけれど10分近くセックスのシーンが続くことだ。このシーン、撮影に10日間かかったとのこと。「レズの人たちはこんな感じでやるのかぁ」という邪な気持ちもちょっとだけあったけれど、「ここまで描き切るのか?」と圧倒され、見入ってしまった。
アデルのエマに対する愛は、肉体的快楽に惹起された感情であるという側面が大きい。ゲイ・バーで、アデルは、客のゲイ男性から「恋は性別を越える」と話しかけられるが、アデルの場合、性別を越えた欲望・快楽の向こうに愛があるように見える。
実存は本質に先行する。
セックスの壁は越えた。でも越えられない壁がある
この映画のもうひとつ画期的な点は、セックス(生物学的性)の壁は越えられても越えられない壁が他にあることを描いている点だ。
エマと恋に落ちたアデルは、自己の決断と行動でセックスの壁を跳び越える。また、ゲイ・コミュニティーや、同性愛者に寛容な人びとに囲まれて過ごす時間は、ある種の解放区または避難所として機能する。
しかし、そのアジールのなかにも別の壁が存在する。同性愛者に寛容なインテリや芸術家のなかで、おそらく労働者階級出身のアデルは疎外感を感じる。
パーティーで孤立するアデルは、酒を注いで廻って料理を取り分けるという、極めてジェンダー化された役割を演じることで所在なさをやり過ごす。
アデルが唯一打ち解けることができた人物は、アクション俳優という極めてマッチョな職業の男性ひとりだけだった。
また、職業不詳だが裕福な芸術愛好家のエマの両親は同性愛に寛容で、アデルはことのほか歓迎される。他方、労働者階級のアデルの父は保守的で、エマに対する警戒を隠さない。母は、社交的だが、旧態依然とした家族観に縛られている。したがって、アデルたちは、ふたりの本当の関係を両親に話すこともできない。
アデルは、セックス(生物学的性)の壁は越えられても、ジェンダー(社会的性)と階級の壁が越えられないのだ。
このまま一緒にいられれば幸せだと言うアデルに対して、エマはアデルに文章を書くことを勧め、自分たちのように知的で創造的な生き方を求める。このことが、アデルとエマのすれ違いの端緒になる。
アデルはレズビアンなのか?

"Tu bois de la Goudale, la bière des goudous."
「グーダル飲んでる。レズのビールだよ」
ゲイ・バーでアデルとエマが初めて言葉をかわすシーンに出てくるビール。日本での取り扱いは基本的にないようです。
エマがレズビアンという性的選好を公言しているのに対して、アデルにとっては、エマとの肉体的快楽と愛こそが重要性をもっている。よりを戻すためにエマを呼び出したときのアデルの発言と行動は、そのことを裏付けている。エマと別れたアデルはその後彼氏も彼女もおらず、行きずりの相手と関係をもったことはあるが、結局エマが忘れられない。
アデルは、エマと出会わなければ、彼氏と別れることもなかったかもしれないし、同性愛を知ることもなかったかもしれない。
最終的にエマのもとを去るアデルが次に愛する相手は、また女性かもしれないし、男性かもしれない。劇中でジョアキムが言及するテイレシアス(Τειρεσίας)の神話が思い出される。
その[性的・感情的衝動の]連続体の一方の端にはお墨付きのヘテロセクシュアリティー、他方の端には妥協なきホモセクシュアリティー、そのあいだには、感情と性的感性の広大な領域が存在する。ある特定の文化や環境に身を置くことで、個人は、このスペクトラムを横断する大いなる自由を得ることができる。
At one end of the continuum lies committed heterosexuality, at the other uncompromising homosexuality; between, a wide latitude of emotions and sexual feelings. Certain cultures and environments permit individuals a great deal of freedom in moving across this spectrum.
出会いの曲は別れの曲
この映画には多くの音楽が流れる。しかし、いわゆるBGMは使われていない(はず)。いずれも、デモの音楽、バーの音楽、パーティーの音楽など、映画のシーンの環境音として流れる。
ただ、1か所だけBGMが流れるシーンがある。エンディングでアデルがエマの展覧会場から去って行く別れの場面だ。ここで流れる音楽は、ふたりが出会った日にストリート・ミュージシャンが演奏していたカイサ・ドラムの音色でである。
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