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昭和23年の新聞ラジオ欄に見る原子力政策:『朝日新聞』1957年3月31日(日)朝刊5面

◯昭和23年の新聞ラジオ欄に見る原子力政策:『朝日新聞』1957年3月31日(日)朝刊5面

 

『朝日新聞』(1957年3月31日(日)朝刊)ラジオ・テレビ欄の「読者のラジオ評」という投書コーナーに、こんな記載があるのを偶然見つけた:


「読者のラジオ評」
『朝日新聞』1957年3月31日(日)朝刊5面
※画像をクリックすると拡大表示されます。

◇KR25日「大臣アワー」桶谷氏の「原子力発電の使用済み燃料をどう処理するか」の問に何一つ国民の安心できる具体策を聞けなくて残念。

▽桶谷氏率直に切りこんで、なかなか聞き応えがあった。宇田長官が船腹を「フナバラ」とはどうかと思う。

▽宇田国務相「東海村といふのは九十九里浜の近所にあります」に桶谷氏も「いえ」だけは残念。現地を知らぬ?

無策で、現場を知らず、漢字が読めない。大臣ってのは、昔も今も結局こんな調子だったんだなぁ。

記事にある「KR25日「大臣アワー」」とは、ラジオ東京(現・TBSラジオ)で月曜日21:35−22:00に放送されていた番組「大臣アワー」の1957年3月25日(月)放送分。「桶谷氏」が「宇田長官」に原子力政策について訊いたようだ。

「桶谷氏」とは、金属工学者で作家・評論家の桶谷繁雄(1910〜1983年)。

「宇田長官」「宇田国務相」とは、高知県選出の政治家で実業家の宇田耕一(1904〜1957年)。石橋湛山内閣・第1次三木武夫内閣で入閣し、1956年12月23日〜1957年7月10日のあいだ経済企画庁長官・科学技術庁長官・原子力委員会委員長を兼任した。

アメリカ合衆国大統領ドワイト D. アイゼンハワーによる「平和のための原子力」(Atoms for Peace)演説(1953年)を受け、阿吽の呼吸で、翌年1954年に日本初の原子力関連予算が成立する。この予算の主導者は中曽根康弘。曰く「学者が居眠りをして怠けているから、札束でほっぺたを打って目を覚まさせるのだ」。

2001年までの日本の原子力政策は、経済企画庁と科学技術庁が役割を分担しつつ合作して進み、制度上はこの上に最高機関として原子力委員会があるというかたちになっていた。しかし、宇田がこの3機関のトップを兼任していたことを考えても、実態は推して知るべしである。このあたりの事情は、吉岡斉『原子力の社会史——その日本的展開』(朝日選書、1994年;新版2011年)に詳しい。

ちなみに、経済企画庁長官の後任は河野一郎、科学技術庁長官・原子力委員会委員長の前後任者は正力松太郎である。これまた、推して知るべし。このあたりの事情は有馬哲夫『原発・正力・CIA——機密文書で読む昭和裏面史』(新潮新書、2008年)でも言及されている。

この記事から56年以上経った今、「原子力発電の使用済み燃料をどう処理するか」という問に対して、現職の甘利明経済財政政策担当大臣と近藤駿介原子力委員会委員長は「国民の安心できる具体策」を提示することができるのかな。

東海村、少なくとも「九十九里浜の近所」ではなさそう。100km近く離れております。この心象地理こそが、日本各地に原子力ムラを生み出した元凶の一端だと思う。


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だから、いいものを作れば聴くんだなというのを信じなきゃいけないと思います」

<コラムの時間>
RAM RIDER『僕と談志と伊集院。』
てれびのスキマ『3・11、芸人はラジオで何を語ったか』
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投稿: | 2013年12月15日 (日) 19時03分

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