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ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」(1936年)

○ヴァルター・ベンヤミン「物語作者」(1936年)

 

先日、本棚の整理中、ヴァルター・ベンヤミン著作集7『文学の危機』(晶文社、1969年)に目が留り、しばし跳ばし読み。

同書所収の「物語作者」(1936年)が改めて面白く、思わず熟読。ニコライ・レスコフ(Николай Лесков 1831-1895)を題材に、経験から引き出される物語について、情報と対比させつつ論じている。「物語作者」と訳されているタイトルの "Der Erzähler" とは「語り部」「ストーリーテラー」のことで、そう考えると対比がもっと鮮明になると思う。

口から口へと語り継がれる経験は、あらゆる物語作者にとって、汲めどもつきぬ泉であった。そして、さまざまな物語を書き記したひとたちのなかには偉大なひとびともいるのだが、かれらの書きしるしたものは、数知れぬ名もない語り手たちの話からきわだっている点はほとんどない。(p.180)

情報はただこの瞬間のみに生き、自己を完全にこの瞬間にゆだね、時をおかずに説明されねばならない。物語はまったく違う。物語は消耗しつくされることがない。自己の力を集めて蓄えておき、長時間ののちにもまだ展開することが可能なのだ。(pp.189-190)

物語作者がその素材、つまり人間生活に対してもっている関係は、手仕事上の関係そのものではあるまいか[……]。そしてその課題とは、経験という生の素材を——他人のも自分のも——ひとつの堅固で、有益で、一回限りのしかたで加工することにあるのではないか[……]。(p.217)

かれ[=物語作者]の天賦の才能とは、かれの人生そのものにほかならず、その真価とは、その人生全体を語りうることである。物語作者——それは、自己の人生の燈芯をかれの物語のおだやかな炎で完全に燃焼しつくすことのできる人間のことだ。(p.218)

これはまさに、優れたラジオ・パーソナリティーにもそのまま当てはまる。

ネット上には、あやふやな情報に基づいてしゃべってしまったパーソナリティーの挙げ足を取ったり、呂律の回らない人を揶揄したり、自分と考え方の異なる人をなじったりする人がいる。

もちろん、正確な情報に基づいて端正にしゃべるにこしたことはないし、自分と似た考えの人と出会うとうれしいこともある。

でも、こちとら自分が知りたい情報を抜くためだけにラジオを聴いているわけではない。そんなもの、ラジオの愉しみの1割も味わったことにならないと私は思う。

しゃべり手本人が実際に経験した話、人から聞いた話、メディアから得た話、その他もろもろが、しゃべり手の語彙、経験、人格、音声器官を通してその人ならではの「一回限りのしかたで加工」された物語として提示されるからこそ貴重で、そのうちの優れたものは「消耗しつくされることがな」く、何度聴いても面白い。

ラジオ・パーソナリティーとはよく言ったもので、「その真価とは、その人生全体を語りうることで」あり、「自己の人生の燈芯をかれの物語のおだやかな炎で完全に燃焼しつくすことのできる人間」だから味わい深いのだと思う。

※蛇足

「物語作者」は『ベンヤミン・コレクション〈2〉——エッセイの思想』(ちくま学芸文庫、1996年)にも収録。現在こっちのほうが手に入りやすい。

ちなみに、マーシャル・マクルーハン『メディア論——人間の拡張の諸相』(みすず書房、1987年)の「ラジオ」の節と読み比べると面白い。ラジオというメディアにおける「文字文化」と「エレクトロニクス的情報」について論じられている。

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