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ラジオな一曲(43):徳永英明「壊れかけのRadio」(1990年)

○ラジオな一曲(43):徳永英明「壊れかけのRadio」(1990年)

 


徳永英明「壊れかけのRadio」(1990年)
 

徳永英明「壊れかけのRadio」(1990年)の主人公は、現在都会に住んでいて、故郷と思春期を思い返している。

曲は、故郷で過ごした思春期のパートと、都会で暮らす現在のパートから成る。曲の主人公は甘美な想い出に浸り、厳しい現実に引き戻され、その間を何度も行き来する。

「故郷」あるいは「ふるさと」とは、時間と空間の概念が内蔵された言葉である。

「故郷」「ふるさと」は、文字通り、「今いる新しい土地」の対義語であり、時間経過と空間移動を前提とする概念である。

「故郷」を想う人は、自分の生まれ育った土地を離れ、今はその土地にいない人である。人は「故郷を後にする」のではなく、後にした場所が故郷になる。他方、生まれた土地に終生住み続ける人は、自分のいる場所を「故郷」として懐かしんだりはしない。

曲の主人公である「僕」は、思春期のパートには登場するが、現在のパートには登場しない。そこで「僕」の代りに登場するのは「人波」である。曲の主人公は「壊れかけのRadio」に向って、「僕」にではなく、「飾られた行きばのない押し寄せる人波」や「帰れない人波」に「本当の幸せ教えてよ」と懇願する。「本当の幸せ」を見失いかけているのは「僕」であるにもかかわらず。

「人波」という言葉は、都会暮らしの匿名性に埋没した自分を言い表しているのかもしれない。あるいは、「僕」と言わないのは、「行きばのない」「帰れない」自分を認めたくないからかもしれない。

そして、思春期のパートの豊穣さに対して、現在の自分自身についてはほとんど何も語られない。これは、充実していた故郷の暮らしに対して、現在の都会での暮らしの空虚さを示唆しているのかもしれない。この歌の主人公は、都会で生活しながら、もはや故郷の想い出を生き始めている。

作詞作曲は徳永自身である。完全な創作なのか、彼自身がこのような気持ちを実際に味わったことがあるのか、定かではない。

「何も聞こえないんだったら、壊れかけじゃなくて、完全に壊れたラジオじゃないか!」——というのは、すでに風化ネタと化したツッコミである。

言うまでもなく、「壊れかけのRadio」とは、「壊れかけの」思春期の想い出、「壊れかけの」夢、「壊れかけの」「僕」の隠喩である。

まだラジオは完全に壊れていない。そこに、ささやかな希望とギリギリの矜持が聴こえる。


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