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ウンベルト・エーコ「永遠のファシズム」、和田忠彦[訳]『永遠のファシズム』(岩波書店、1998年)

○ウンベルト・エーコ「永遠のファシズム」、和田忠彦[訳]『永遠のファシズム』(岩波書店、1998年)

 

ウンベルト・エーコ『永遠のファシズム』

先日、神保町の小宮山書店の店先に出ている本の背表紙に目を走らせていると、ウンベルト・エーコ(Umberto Eco)の『永遠のファシズム』(1997; 岩波書店、1998年)が目に留った。

学者が一般向けに書いた本はガッカリなものが多いけれど、この著者でこのタイトルなのでチョッと期待して購入。まぁ、安かったってのもあるんですけどね。原題は Cinque Scritti Morali——イタリア語は解らないけれど、たぶん「モラルに関する5つの論稿」みたいな意味だと思う。こっちのタイトルだったら、たぶん買ってない。

エーコは世間では、記号学者としてよりも、『薔薇の名前』Il Nome della Rosa(1980年)などの小説の著者・作家としての知名度のほうが高いかもしれない。

だけれど、『開かれた作品』Opera Aperta(1967; 新・新装版:青土社、2011年)という本も、スポーツ実況の構造を「偶然と筋」という観点から記号論的に分析している章があって面白いよ。

ウンベルト・エーコのラジオ・ロンドン

さて、『永遠のファシズム』に収められている「永遠のファシズム」という論考にラジオの話が出てきた:

今日イタリアには、レジスタンス神話はコミュニストがつくった嘘だというひとがいます。コミュニストがレジスタンスで主要な役割を果たしたのは自分たちだと言って、レジスタンスを占有物であるかのように利用したのは事実です。けれどわたしは、赤だけでなく色とりどりのネッカチーフを巻いたパルチザンたちのすがたを覚えています。

ラジオにへばりつくようにして、毎晩——窓を閉め切った暗がりのなか、受信機のまわりだけがちいさな光の輪を放っていた——ラジオ・ロンドンがパルチザンに向けて流すメッセージに聞き入っていたものです。メッセージといっても、謎めいた詩のようなもの(「日はまた昇る」とか「バラの花咲くときもある」)も混じってはいましたが、大半は「フランキへのメッセージ」とよばれるものでした。フランキというのは、北イタリア最強の地下組織の指導者で、勇敢な人物として語り草になっているんだ、とだれかがそっと教えてくれました。そのときからフランキはわたしのヒーローになったのです。フランキという人物は(本名をエドガルド・ソーニョといって)王政主義者でしたから、戦後は反共主義者として極右勢力を結集し、反動クーデタに協力した罪で起訴されたりもします。それでもいっこうにかまいません。ソーニョがわたしの少年時代のヒーローであることに変わりありません。解放は、色合いのちがう人びとにとって共通の大事業だったのです。(pp.33-34)

ここに登場する「ラジオ・ロンドン」(Radio London)というのは、1960年代に北海沖から放送していた海賊放送局のことではなく、第二次世界大戦中にイギリスの PWE(Political Warfare Executive:政治戦争本部)が、ナチスおよびファシストの支配下にあったヨーロッパ各地に向けて行っていたプロパガンダ放送。

政治的な意図が濃厚な放送であったとしても、上の引用のように、ラジオの向こうから自由と解放の言葉が夜な夜な耳もとに届くという経験は、きっとエキサイティングなものであったに違いない。

この話は、単にラジオの話だから私の琴線に触れたというだけでなく、戦中の歴史的事実というものは戦後の人びとが安易に裁断できるほど単純なものではないということを確認させてくれる興味深いエピソードでもある。

日本の歴史論争も、歴史認識だ何だと言いながら、実は歴史的事実から浮遊した、今日的な生々しいデオロギー闘争に過ぎないことが多い。それぞれの陣営の人びとが自分の信奉するイデオロギーへの忠誠心を示すために歴史を横領しているだけのように見える。

「永遠のファシズム」とは?

上のラジオの話は、論稿の枕の部分に過ぎないのだけれど、本編も興味深い内容なので、せっかくだから概説しておこうと思う。

エーコは、言説の中に現れる提喩としての「ファシズム」という概念の曖昧さを指摘する:

アメリカのラディカルな人びとが、「ファシストの豚(Fascist pig)」という表現を、喫煙者を容認しない警官を指すときにまで用いるのはなぜでしょうか? どうしてたとえば、「ファランヘ主義者の豚」、「ウスタシーの豚」、「ルイスリングの豚」、「パヴェリックの豚」、「ナチスの豚」とよばないのでしょうか?(p.37)

同時に、エーコは、実在したファシズムそのものも曖昧模糊とした物であったと見立てる:

ムッソリーニにはいかなる哲学もありませんでした。あったのは修辞だけです。(pp.38-39)

このようにヨーロッパを徘徊する「ファジーなファシズム」の亡霊に対して、ファシズムの典型的な14の特徴を具体的に挙げることで「原ファシズム(Ur-Fascismo)」あるいは「永遠のファシズム(Fascismo eterno)」という仮説モデルを提示する。マックス・ヴェーバー風に言えば、「ファシズムの理念型」と言えるかもしれない。

このように精緻な理念型を構築する背後には、次のような目的がある:

原ファシズムは、いまでもわたしたちのまわりに、時にはなにげない装いでいるのです。[……]これ以上ないくらい無邪気な装いで、原ファシズムがよみがえる可能性は、いまでもあるのです。わたしたちの義務は、その正体を暴き、毎日世界のいたるところで新たなかたちをとって現れてくる原ファシズムを、一つひとつ指弾することです。(pp.60-61)

「原ファシズム」の理念型は、PCユーザーっぽく言えば、セキュリティー・ソフトのウィルス定義みたいなものかな。これによって初めて、日常に忍び寄るファシズムを検知することができる。

ちなみに、エーコが挙げたファシズムの典型的特徴のひとつに、こういうのがある(残りの13の特徴はぜひを手に取ってご確認を):

14 <原ファシズムは「新言語」(ニュー・スピーク)を話します。>[……]ナチスやファシズムの学校用教科書は例外なく、貧弱な語彙と平易な構文を基本に据えることで、総合的で批判的な思考の道具を制限しようと目論んだものでした。(p.58)

どっかで聞いたことあるわ、この話。

「円周率=3」はファシズムへの道。

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