上杉隆が Twitter で紹介していた『ニューヨーカー』の記事を翻訳しました(2):Evan Osnos, "Aftershocks: A nation bears the unbearable." The New Yorker, March 28, 2011
○上杉隆が Twitter で紹介していた『ニューヨーカー』の記事を翻訳しました(2):Evan Osnos, "Aftershocks: A nation bears the unbearable." The New Yorker, March 28, 2011
先日訳した The New Yorker の記事、Evan Osnos, "Aftershocks: A nation bears the unbearable." The New Yorker, March 28, 2011の続き。終ったと思ったら、全部で5ページあったのね。金曜日あたりまでに完訳を目指しています。
石原慎太郎の「天罰」発言にも言及。前回以上にスピード重視・品質後回し。誤訳は遠慮なくご指摘を:
<< 前ページ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 次ページ >>
様々な余震
エヴァン・オウスノス(2ページ目)
この災禍は、原爆以来、いかなる日本の損失よりも大規模なものになりそうだった。経済的損失は世界第3の経済大国の年間GDPの3%にのぼると見積もられた。それでも、津波以降の日本にいるということ、すなわち、ひとつの国民が一瞬による荒廃を実感するのを目の当たりにするということは、ひとつの民族が平静を求める本能と突然の恐怖に対する叫びとのあいだで引き裂かれるのを目にすることであった。その日の地震で唐突に幾多もの悲劇が起きたばかりにもかかわらず、そして、忍び寄る原子力に関する不安が続いているにもかかわらず特筆に値するのは、直接見ても日本のメディアを通して見ても、国民的な協調と意志がほぼ完璧に意識されているように見えたことだ。略奪や過度のパニックはほとんど見られず、これを政治的に利用する動きもほとんどなかった。月曜日に、顕著な例外がひとつだけ現れた。国粋的な東京都知事・石原慎太郎が、この地震は天罰だと発言した。しかし、石原は過去にも馬鹿げた発言を繰り返しており、驚く者はいなかった(彼は翌日謝罪した)。
ひと気のない東京の夜の道を車で横切りながら、空港めがけて押し寄せる外国人は、省エネの呼びかけによって灯の消えた店の看板や巨大屋外テレビ・スクリーンを見にするだろう。鉄道の高架下をくぐるときも、ずんぐりとした先頭車輛の電車ががその上を急ぐこともほとんどない。東京都心のひと気のない道路の上で、カマヅカ・ヨウタという若いビジネスマンと私が赤信号で停車したとき、余震が車全体をかすかに揺らした。私たちのまわりの街の灯が揺れている間に、カマヅカはダッシュボードのテレビのスイッチを入れ、TBSにチャンネルを合せた。白いヘルメットをかぶったニュース・キャスターが、東京はマグニチュード6.4の揺れを経験したと伝えていた。カマヅカは肩をすくめた。彼はこれまで地震には慣れていたが、彼はすでに迫り来る別の問題を心配していた。「株式市場はリーマン・ショック以降最大の下げ幅だった」と彼は言った。私たちはしばらく車内に座ったままで、ダッシュボードのテレビが、北日本はとにかくラジオ・電池・あたたかい衣服を必要としていると日本の他の地域に向けて説明するのを見ていた。次の瞬間、テレビは、レディ・ガガ、バックストリート・ボーイズ、シンディ・ローパーといった、追悼の意を表する西洋のセレブたちを次々と映し出した。「彼女は日本でとても有名だ」とカマヅカは言った。
地震以降、日本は300回以上の余震に曝された。最初の揺れ以降に倒壊した家屋はひとつやふたつどころではない、と人びとは私に口々に言った——「大きいやつ」と津波は惨事に充分慣れている日本人の想像を超えた出来事であったかのようである。
この惑星での生活に関する不吉な前ぶれについて、私たちが決まって「聖書に出てくるような」と呼ぶ大惨事——地震・津波・火山の噴火——の原因は、地球のプレートの絶え間ない運動の結果である。日々われわれの気付かぬところに潜む地学的流動性の多くは、太平洋全体をぐるりとなぞるアメリカ西海岸とアジア東海岸を含む巨大なアーチである環太平洋火山帯の名で知られる場所に沿って起こる。プレートの沈下の、すなわち、ひとつのプレートがもうひとつのプレートの下に滑り込む過程は、環太平洋火山帯沿いではとりわけひどい。
日本の東にある大きな地質プレート、太平洋プレートは、毎年約3インチづつ移動しており、これが本州の下に沈み込む時、上のプレートは最終的にズレるまで、すなわち地震が起きるまでずっと引き込まれ続ける。先週仙台市沖で起こったのマグニチュード9.0の地震は、日本の歴史上最も強いもので、多かれ少なかれ人類史上・観測史上第5番目に強い地震であると考えられている。地震学者たちは、地質学的事件と地質年代を研究している。彼らは、1日24時間週7日のニュース放送の周期という、地質学とは関係ない締め切りのために、必ずしも決定的な評価を下そうとはしない。それにも関わらず、アメリカ地質調査所(the United States Geological Survey)所長のマーシア・マックナット(Marcia McNutt)は、CBSに「もし仮にこの地震のエネルギーをコントロールできるとしたら、ロサンジェルス規模の都市の1年分の電力をまかなうことができるだろう」と語った。この地震は、地球の質量の配分を変え、その結果自転速度が速まり、地球の1日が1.8マイクロ秒縮まったと考える科学者もいる。
地学者たちにとっては、地震は、地球の絶えざる変成における恒常的な現象である。日本人にとっても、地震は恒常的なものにすぎない。ある任意の1年のあいだに、数百もの地震が起こるが、通常はほとんど認識できないほどの小さな地震である。壁の絵やテーブルの上の陶器を揺らすことはあっても、会話を妨げたりすることはまずない。コロンビア大学教授で日本文学者の重鎮のドナルド・キーンは「非常によくあることだが、日本を離れた後で久しぶりに戻ると、小さな地震が起こっても、私は気付くが同じ部屋の他の人は誰も気付かない。彼らは私を見て笑う」と語った。加えて「でも、人びとは今回のような地震に常に備えているので、警戒するだろう。大規模地震が起こればショックを受ける。世界が変る」と語った。
日本人は、他のどの国民よりも環太平洋火山帯の近くに住んでいるため、地震の歴史について詳しく、同時に、過去の破壊の遺産や、地平線上で常になぜか起きている緊急事態について意識が高い。東京のある学者は、その出来事に恐怖を感じると同時に、少なくとも「大きいやつ」——このあいだの大地震——が首都を直撃しなくて内心ホッとしてもいると申し訳なさそうに語った。
先週までは、日本最大の地震は1923年9月1日の地震だった。この地震はマグニチュード7.9の規模で、揺れは約5分間続き、東京と港町横浜を更地にし、14万人の死者を出した。地震が襲ったのが昼間だったため、多くの日本人は調理のため火を使っており、物的・人的被害の大部分は都市を焼き払う大火災によるものだった。皇居にも火の手が移ったが、天皇・皇后はその時日光に滞在していた。この地震は関東平野を直撃したため、関東大震災として知られている。1960年以来、日本ではこの日を防災の日と定めている。学校やその他の企業・団体は、災害に備えて訓練を行っている。
(つづく)
<< 前ページ | 1 | 2 | 3 | 4 | 5 | 次ページ >>
随時更新。
被災地情報の取得・安否確認等にお役立てください。
| 固定リンク
« 上杉隆が Twitter で紹介していた『ニューヨーカー』の記事を翻訳しました(1):Evan Osnos, "Aftershocks: A nation bears the unbearable." The New Yorker, March 28, 2011 | トップページ | 上杉隆が Twitter で紹介していた『ニューヨーカー』の記事を翻訳しました(3):Evan Osnos, "Aftershocks: A nation bears the unbearable." The New Yorker, March 28, 2011 »
コメント