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書き起こし(3):『息もできない』ヤン・イクチュン監督×ライムスター宇多丸 緊急スペシャル対談

○書き起こし(3):『息もできない』ヤン・イクチュン監督×ライムスター宇多丸 緊急スペシャル対談


 

「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」(TBSラジオ、2011年2月12日(土)21:30-24:30)で放送された、宇多丸による、映画『息もできない』똥파리(2008年)の監督ヤン・イクチュンへのインタヴューの3回目。

息もできない(日本語公式サイト)

TBS RADIO 特集リスト2011! (ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル)
※上記ページから「2月12日「ヤン・イクチュン監督と緊急スペシャル対談」」をお聴きください。

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ヤン・イクチュン[監督]『息もできない』(2008年)予告編
2010年日本公開
 

無意識には常に理由がある 

宇多丸 監督としてスゴいなというふうに僕、思うのは、決して、そのもちろん、お金がかかってる作品ではないはずなのに画面がチープでないというか、豊かに感じるんですね。あのぅ、大作の、すごくお金をかけた映画と並べてみても、予算がいくらかとか考えて観客は見てるワケじゃないですから、あのぅ、全く遜色がないとというか、非常に豊かな画面になってると。

例えば、予算があまりない中で、画面をチープでなく豊かに見せるための工夫とかって、何かしたりしてるんでしょうか?

ヤン・イクチュン 私は監督としてはこの映画が1本目、最初ですけども、俳優としては10年以上やってきましたので、やはり私の俳優としての部分が出てきたと思うんですね。ですから、私は正直に、先ず映画を撮る時に各部門のスタッフを集めて言ったんですね。「この映画を撮る時に順番を、順位付けを1番・2番・3番どれが大事って付けるんだったら、私は悪いけど俳優だから先ず最初に1番は俳優になるよ」って言いました。

私の撮る方法っていうのは、リハーサルはほとんどしないですね。リハーサルをやって慣れてくると、同じものがまたルーティンで流れてくる。そうはしたくなかったので、いきなり俳優を呼んで、それで「じゃぁ、本番」と言って始める。で、俳優は「本番」って言われて非常に驚くワケですよね。普通は監督から「こうやりなさい」「ああやりなさい」と指示されるのに慣れているし、その指示通りにやるワケだから、いきなり本番では驚いちゃうんですけども、でもカメラが回ってると「できません」とは言えない。それで、その時に発揮されるものっていうのがあると思うんですよ。

それと俳優優先ですから、カメラと照明のセッティングに合せて俳優に演技させるワケじゃなくって、俳優さんにカメラも照明もついていく。俳優さんがフレーム・アウトしたらそれを追っかけていくとうふうに撮りましたから、それがある意味活き活きした画面になったのかもしれません。

私はまた、常に俳優の顔を近くで撮りたいっていうのでハンド・ヘルド[・カメラ]を使ったんですけども、これは周りの状況を、退いて状況を見せるんじゃなくって、顔のクローズ・アップでもその状況を説明できるワケですよね。

例えば例を挙げると、サンフンと父親が殴り合う場面でも、実際サンフンが父親を殴ってるっていう退いた画はほとんどないんで、殴ってるサンフンの顔、殴られてるサンフンの父親の顔、で、それで表現できるわけです。

でも、これも、考えてみれば、そんなに、これで表現できるからこうしようと思ってやったワケではなくって、俳優出身の私が常に俳優の近くから撮りたい、顔を撮りたいっていうことでやっていくなかで出てきたことかもしれません。

宇多丸 なるほど。確かに、すごいクローズ・アップが多い作品だと思うんですけど、あの、そのクローズ・アップの、例えば人物がクローズ・アップされてるところに、フレームの中に何かが、何かとか誰かがフレーム・インしてきた時に何かが起こるっていう特徴があるなぁっていうふうに思っているんですけど、そのあたりは、じゃぁ、計算されたものなんでしょうか?

ヤン・イクチュン おそらく計算はしてないと思うんですけども、例えばサンフンの父親と母親が過去争う場面っていうのがありますよね。それを当時の幼かったサンフンが見てるっていう。その3つとも、父親も母親もサンフンもクローズ・アップで映るんですけど、それは変なワケですよね。父親と母親と3メートルぐらい離れた所から見てるワケだから、見てる所から見たら全体が見えてるはずなのに、でも画としては、父親のクローズ・アップ、母親のクローズ・アップで、切り替えて見ているサンフンのクローズ・アップっていうふうになる。

それは実際は話は合ないんだけども、でもそれは私の経験でもあるんですね。私もそういうふうに争うのを見た時に、まるでホントに自分の目の前で、3メートル向こうじゃなくて目の前でそれが演じられたような記憶なんですよ。それは記憶が、だんだんだんだんひとりで変っていってそういう記憶になったっていうんでしょうけども、でも実際それは、私の記憶だったワケです。

映画を撮る場合にも、そういう自分の記憶を手探りで探っていってそういう画をつくるというか、そういうところがあって、だから実際にそのクローズ・アップでつなげたからそうだと計算してやったワケではなくって、その自分の記憶というものを辿っていったらそういう画になったという部分もあったような気がします。そのサイズとかについては。

宇多丸 あぁ、なるほど、そうなのかぁ。

ヤン・イクチュン そのシーンは、ホントは自分はもっと極端にクローズ・アップにしたくって、サンフンを映す時はサンフンの目ひとつだけとかにしたかったんですけど、それを言ったら、撮影監督さんが「それはダメですよ、監督。デカいスクリーンに目ひとつだけ映ったら、観客は耐えられないから」って言われてやめたんですけど。

宇多丸 ふぅん、あぁ、そうなんですね。

あのぅ、クローズ・アップではないんですけど、サンフンとヨニが最初に出会うところで、[サンフンが]唾を吐く。その瞬間、左下から[実際は右下から]ヨニが入ってくるっていう、この、何ていうんですかね、名フレーム・インだと思ったんですけど、そういうあたりも計算ではなくってことなんですかね?

ヤン・イクチュン 私は考えるんですけど、日常に起こってること、事件とか人生そのものとかは、何か準備して始めるワケじゃないですよね。何も準備もなく、流れてゆく中で日頃の人生は進んでるワケじゃないですか。ですから、この今おっしゃった場面も、ヨニが現れて唾を吐きかけられちゃうんですけど、もちろんそれはヨニのほうは受けようと思って行ったワケじゃなくて、彼女は「父親をどうしよう」「弟はどうしよう」と考えながら行って、そこに唾が飛んでくるっていうふうになるわけですね。

あのシーンにはチョッと人工的すぎるという批判も浴びたんですけど、でも私としては、あれで自然じゃないか、日常っていうのはああいうこともあり得るんじゃないかっていうふうに思いました。

宇多丸 そういう自然なというか、それこそ、日常の、あの、無意識を実際に、こう、画面に定着させるような演出法っていうのは、例えば誰か具体的に影響を受けた映像作家・映画作家っていうのはいるんですか?

ヤン・イクチュン 何か特定の作家とか作品から影響を受けたっていうことはないんですけども、私がこれまで生きてゆく中で観てきた映画でありますとか、小説、あるいは自分の目に映ってきたこれまでの経験でありますとか、出会いでありますとか、今のこのヤン・イクチュンという、今の私を構成するものが影響を与えたといえるんじゃないでしょうか。

「無意識」っていう言葉を私が今、実際何べんか使いましたけども、無意識ってのは自分では記憶がない、記憶してないだけで、理由は常にある訳ですよね。

例えば、サンフンは、置かれてる状況の中でもがきながら暴力を振るう。でも、なぜ暴力を振るうのか解らないワケですよね。でも理由ってのはあるって私は思います。

次回作は30年後?

宇多丸 韓国の映画界みたいな、ちょっとそういう広い話も伺いたいんですが、僕らから見ると、韓国の映画界はスゴく良いというか、スゴく充実してるように見えるんですが、ヤン・イクチュンさんは、そのいわゆるその商業映画界とも違う場所でこの作品をつくられたわけですけど、ヤンさんから見て韓国の現在の映画界というのはどうでしょうか?

ヤン・イクチュン 特に私は韓国映画界について特に悩んでるとか何とかいうことはないんだけど、私は不条理が多いと思うんですけど、韓国映画界には。

宇多丸 ふんふん。

ヤン・イクチュン まぁ、一方で日本の映画システムっていうのは、けっこう良いのじゃないかなというふうに思います。それは、私は韓国人だから、隣の芝生が、っていうことでしょうけど、私は韓国人だから、逆に日本のシステムにも良いとこあるんじゃないかなっていうふうに思っています。

韓国の映画界には問題がスゴく多いですよね。スタッフの人権、スタッフが人間らしい生活していけるだけのものを与えるでありますとか、でも、そういう不足した状況の中で努力している、精一杯やっていることが醸し出すエネルギーっていうのはあるだろうし、それを韓国映画界を見る日本のかたが「スゴくエネルギーが充実しているなぁ」とか、そういうふうに思われるところじゃないかなぁと思うんですけども。

今韓国の映画界が抱えてる問題は色いろ多いと思います。そのうちのひとつが、韓国では、いわゆるメジャーな映画だけが映画だという考えが4〜5年前までは大半だったんですが、ほとんどのかたが大劇場でかかるメジャーな映画だけが映画で、それ以外には映画っていうものはないと思ってたんですけど、4〜5年前ぐらいから初めて映画にも様ざまなものがあるし、映画のもつ機能っていうのも色いろあるでしょうし、そういうものも護っていかなければっていうふうになってきたのも、ホント4〜5年前だと思うんですけども、そこら辺の映画のもつ多様性とかいうことを大切にしなければ、今度は逆の方向に行くんじゃなかと思いますね。

宇多丸 うぅん。

それでは、ちょっと、最後の質問、ちょっとひとつだけさせてください。そんななかで、まず監督自身この『トンパリ』以降ですね、状況が変わったのかどうか、そして、次回作について何かお考えなのかどうか、というあたりが最後に……。

ヤン・イクチュン この映画をつくって変ったことっていうことは、昨年の初めからホントにたくさんのインタヴューを受けました。昨年の初めから受けたインタヴューで、韓国国内のやつで、日本で、その他の外国で受けたやつを合せると、もう1000件以上は受けてると思います。

宇多丸 (笑)お疲れさまです。

ヤン・イクチュン でも、この映画は今私からは独立して、親離れした子供ですし、この映画と私は今、別の存在なワケですよね。私個人に関して言うと、この映画を撮ったことで、非常に周りの環境は大きく変化しました。これは良い変化なんですけども、今もその変化した状態が続いています。

ですが、この映画をつくる時に、30何年間の日記を一度に書いたと言いましたけども、それほどのものを吐き出したワケですよね。で、当分の間はもうつくる予定はないんですね、今のところ。

宇多丸 吐き出し切った。

ヤン・イクチュン えぇ。長編の計画はないですし、短編映画はひとつプロジェクトとして支援してもらってつくる計画があるんですけども、このエネルギーが切れてるというか。ですから今、切れたエネルギーの中に何か充満してくればまた何かを表現することができるでしょうし、やっぱり表現っていうのは自分の心の中に「これを表現したいな」っていうものが溜まってこないと表現することはできないと思うんですよね。ですから、今私はチョッと映画からは離れてる時期かもしれません。

宇多丸 なるほど。あの、でもまさに、その、ヤン・イクチュンさんが、その、ホントに、たぶん一生に一本の作品をつくるつもりでつくられたんでしょうし、だからこそ僕らは、その、有無を言わさずこの作品に感動してしまうっていうものだと思うから、そのおっしゃることはスゴく誠実だと思うし、これ級のが仮に、あの、30年後ね、60歳になられた時にまたできるんなら、それまで待ちますよじゃないですけど、それだけのことがある作品だと思います。

ヤン・イクチュン 30年後に私がもし映画をつくれたら、ぜひ呼んでください。ここに来ると思います。その時には皺は増えてるかもしれませんけども(笑)。

宇多丸 まぁ、正直、それよりは早くつくってほしいですけど、やっぱり、色いろ無意識でつぎ込んだだけで、これだけ実際クオリティーも高いものができるんですから、あなた天才ですよ。

ヤン・イクチュン 私、これからも一生懸命人生を生きますから、そうすればもっと早く映画ができるでしょう。

宇多丸 はい、ありがとうございました。

ヤン・イクチュン [日本語で]ありがとうございます(笑)。

「シネフフィル的な質問にシネフィル的に答えるタイプの人ではない」映画監督が、30余年にわたり心に鬱積したモヤモヤを吐き出して解消するために撮った映画が、世界中の評論家たちを唸らせているというのはなかなか痛快なことだ。

低予算ながらもチープでないスリリングな画作りに関する件は、自主映画などを撮っている人には参考になりそうだ。ありものの撮影技法のリサイクルではなく、自分が描きたいものをいかに表現するかが出発点になっているというのは興味深い。新鮮な映画と新鮮な表現は常に対になっている。目ひとつだけのカット、観たかったなぁ。

また、この映画は、韓国社会の周縁に生きる人たちを活写することで韓国社会全体を遠望する社会派的な側面もあるけれど、それは監督自身が個人的な動機に導かれて自分自身を掘り下げた結果の副産物に過ぎない。

フェミニズムのモットーのひとつに "The personal is political."(個人的なことは政治的である)というものがある。私生活(例えば、家庭)を規定する人間関係や権力関係は、その外にある公的領域(例えば、社会)の人間関係や権力関係とパラレルで、個人がいかに社会に埋め込まれた存在であるかということを表している(ちなみに、若松孝二[監督]『キャタピラー』(2010年)は、まさにそういう映画だった)。

フェミニスト的な関心事にかかわらず、これは社会的な事象すべてにあてはまる。従って、極私的なものを徹底的に掘り下げれば、それは結果として必ず社会批判に近接する。

『息もできない』の照り返しを受けて見ると、世に言う「自分探し」がいかに何も探していないかということも透けて見える。

あと、こういうのも見つけました。観たい:

けつわり − 映画作品紹介


安藤大佑[監督]『けつわり』(2006年)
ヤン・イクチュン主演

書き起こし(1):『息もできない』ヤン・イクチュン監督×ライムスター宇多丸 緊急スペシャル対談

書き起こし(2):『息もできない』ヤン・イクチュン監督×ライムスター宇多丸 緊急スペシャル対談

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