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「大竹まこと ゴールデンラジオ」(文化放送、2008年6月20日(金)13:00-15:30)

○「大竹まこと ゴールデンラジオ」(文化放送、2008年6月20日(金)13:00-15:30)

※少しだけ加筆修正。2008年6月26日(木)

いつものようにポッドキャスティングで「大竹まこと ゴールデンラジオ」(文化放送、月〜金13:00-15:30)の「大竹メインディッシュ」の面白そうなのを選んで聴取。

お笑い芸人や役者をゲストに迎えたときの大竹の知識と洞察の深さには、聴いていていつも触発される。

昨年のM-1グランプリ決勝で、他の審査員は誰も票を入れないだろうとわかった上で、どうして大竹はひとりキングコングに一票を投じたのか、その理由を語った6月19日(木)放送分も面白かったが、6月20日(金)放送分の立川志の輔を迎えての回は興味深かった。

大竹まこと ゴールデンラジオ!「大竹メインデッシュ」【6月20日ゲスト:立川志の輔師匠】

※ただし、公開は放送後1週間。2008年6月27日(金)のお昼過ぎには削除される。

時おり大竹が演劇論的なアプローチで切り込みつつ、全編にわたり落語談義が展開された。終盤、座布団の上に小さく座って噺し、手拭いと扇子程度の小道具で「落語って何でこんなシンプルにやってられるんだろう?」と志の輔自身が問を立て、最近解ってきたこととして「落語はお客さんが一生懸命仕事してるんですよね」というひとつの答を提示する:

立川志の輔 あのぅ、ま、単純な、わりと好きな小噺ですけど、その、あの、
「係の人、私この絵は知ってるんだけど、えぇと、誰の絵だったかしらねぇ?」
「あぁ、奥様、それはあのぅ、レオナルド・ダ・ヴィンチでございます」
「あぁ、ダ・ヴィンチ! あぁ、そうそう、知ってるのよ、係の人。隣はほら、あのぅ……」
「奥様、ゴッホでございます」
「あ、ゴッホ。わかっ、わかってるのよ、あなた。その隣が、あ、あ、係の人、これは私わかるから余計なこと言わないでちょうだい。この絵はピカソよねぇ?」
「奥様、鏡でございます」
っていうのがある。
大竹まこと・六車奈々 はははは。
志の輔 このときに、係員を思い出し、奥様の顔を想像し、わかってる絵を自分の知識の限り思い出し、最後「ピカソでしょう?」「奥様、鏡でございます」って言われた瞬間に、その、ま、仮にね、会場が笑うとしますよ。その瞬間に、あなた、ピカソの顔とそっくりの奥さんを思い出してっていう、そのありとあらゆる作業をしてるのは全部客だってことですよ。
六車 そうですよね。全部その言葉で想像してるわけですもんね。
志の輔 そう、私、今喋っただけですから。

落語通の御仁はわが意を得たりとニヤリとしたかもしれない。また同時に、ラジオ・ファンのなかには「これはラジオの話でもある」と心得た向きもあるだろう。いずれの人も、この話を耳にして、語りを軸とした表現が映像表現を凌駕する契機を見出して陶然とするかもしれない。

しかし、私はラジオ・ファンとしてこの話にはどこか満足できない。

というのも、もし上述の話が事実であるとするならば、言語パフォーマンスが到達しうる最高の価値が、結局は映像だということになりはしないか。語りは映像を引き出すためきっかっけ、いわば「頭の中のテレビ」のスイッチに過ぎない。となると、これは即ち、映像に対する言語の従属ではないか!

私は落語に不案内なのでラジオの話として言うならば、ラジオ愛好者は「想像力」というキー・ワードを梃子にしてラジオの価値を映像に向かって押し上げるたがる。「ラジオを聴くと想像力が豊かになり、テレビよりももっとすごい映像が頭のなかに浮かぶ」という具合だ。しかし皮肉なことにその時、ラジオの価値が、テレビを基準に値踏みされている。ラジオの優位を語っているつもりのその言葉が、テレビや映画に対するラジオの敗北を宣言していることになる。

もちろん、ラジオにおける言語パフォーマンスは、新聞を拾い読みするものもあれば、志の輔が言うような聴き手の想像力を映像へと導くものもあり、ニーズやテーマに応じて多様であってよい。もちろん、後者は充分に高度な精神のはたらきを含んでいることを認めるが、それでも、言語パフォーマンスの前衛がそこにあるとは私は思わない。

志の輔の解釈に抗して

ここで改めて考えてみよう。私たちは志の輔の先ほどの小噺を聴いたとき、本当に「ピカソの顔とそっくりの奥さん」を思い描いているだろうか?

よく考えてみれば容易に解るが、もし件の「奥様」の顔がピカソがキュビスムの手法で書いた肖像画にそっくりだとしたら、それはそれでシュールではあるが笑いにはつながらない。この小噺が笑いを呼び起こすためには、「奥様」は生身の醜い顔の持ち主でなければならない。となるとしかし、「この絵はピカソよねぇ?」と「奥様」が口にしたときに、鏡に映っているのは生身の醜い顔の「奥様」であるから、その途端この小噺は映像としては破綻してしまう。実はこの小噺は、志の輔の解釈とは全く正反対に、映像化不可能なのだ。逆に言えば、この小噺は、映像化不可能性によってはじめて笑い話として成立し得るのだ。

この小噺の聴き手が思い浮かべるのは、ある種のイメージには違いないが、厳密に言えば、具体的な「映像」に還元することは出来ない。伊集院光が好んで度たび引用する「松の木におじやぶつけたような不細工」や「暗闇にヘタをつけたような大きな茄子」という落語の表現なども類似の例で、その言語と映像との間にある裂け目にはえも言われぬ活力が満ちている。

言語と映像の両方に抵触しつつも、そのいずれとも完全には一致しない——贔屓目に言うならば、その両者を媒介としつつその両者を乗り超える、いわば「第三のイメージ」とでも言うべきものがそこに現出する。このようなかたちで言語と想像力が出会う場こそ、言語パフォーマンスの前衛たり得るのではないだろうか。

「映像化不可能性」という専売特許

あなたは「テレビは見るもの、ラジオは聴くもの」と思ってはいないだろうか? それは誤解である。私たちは、テレビを見ると同時に聴いている。テレビは映像と音声の両方を扱っており、音声は必ずしもラジオの専売特許ではない。

ラジオの愉しみの神髄は想像力を媒介とした「言語→映像」の変換作業だと考えるのであれば、それはラジオの愉しみの一部を語っているに過ぎない。もっと言えば、ラジオの可能性を貧困化しているとさえも言える。「聞けば、見えてくる」というTBSラジオのキャッチ・コピーは、コピーとしては100点だが、ラジオの特性についての説明としては70点ぐらいだ。ラジオは見えるはずのないものさえも伝達し得る。

「全然テレビに負けちゃって、ゲームとかにも全然歯が立たないような」「媒体価値の下がってる」「形だけのマスメディア」だと一般に思われているラジオ(宮川賢)が、テレビとは別様の固有性を発揮する可能性があるとするならば、それは「想像力による映像化」にではない。すべてラジオ番組がそれを目指す必要はないが、ラジオの前衛はむしろ「映像化不可能なイメージ」のほうにあるのではないだろうか。なぜなら、映像なしでは成立し得ないテレビには「映像化不可能なイメージ」を扱うポテンシャルがないからだ。

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コメント

はじめまして。志の輔師匠を検索してお伺いしました。

私もこの小咄好きなんですが・・
う〜む、それにしても理屈っぽい(笑)
ふつうここまで考えないですよ。
でも面白かったです。奥さんの顔を本当に想像してるか?って言われると、してない・・確かに。よく気づきましたねしかし。

投稿: 落研育ち | 2008年6月30日 (月) 13時27分

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