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月曜JUNK「伊集院光 深夜の馬鹿力」(TBSラジオ、2007年11月5日(月)25:00-27:00)

○月曜JUNK「伊集院光 深夜の馬鹿力」(TBSラジオ、2007年11月5日(月)25:00-27:00)

月曜JUNK「伊集院光 深夜の馬鹿力」(TBSラジオ、2007年11月5日(月)25:00-27:00)で、やなせたかし[原作]/波多正美[監督]『チリンの鈴』(サンリオ・フィルム、1978年)が話題に上った。

子供向けアニメには不似合いな「ダークダックスみたいな」「大人の音楽」(正確には、ブラザーズ・フォーの歌)によって醸成される伊集院少年の許容範囲を超えた『チリンの鈴』の作品世界、そして今それを見直した時の「しばらく開けてない箱を開けた」ような「ゾゾっとくる感じ」について伊集院は語り始めた。伊集院の語りに基づいて『チリンの鈴』のあらすじを要約すると次の通り:

首に鈴をぶら下げた小羊のチリンは、牧場で平和に暮らしていた。ある日、冊を破って狼が牧場を襲い、チリンを守るために母羊は、チリンの目の前で狼に殺されてしまう。「羊は羊だというだけで、牧場にうまれてのほほんとし、たまに狼が来て食われる。それを受け入れるだけなんておかしい。だから狼になりたい」と、母親を殺した狼ウォーに弟子入りする。狼と修行するにつれてチリンは羊でもな区狼でもない異形の化け物に変貌していく。

ある日、彼らはチリンの生まれた牧場を襲うことになる。身を呈して小羊を守ろうとする母羊の姿を見て、チリンはその姿と自分の過去をオーヴァラプさせる、師匠であり親の仇である狼のウォーを倒す。ウォーもいずれそのようなかたちで訪れる最期を覚悟していたことをほのめかして死ぬ。チリンは「僕は羊だ!」と叫ぶが、牧場に受け入れられることはなく牧場を去り、風の強い日に鈴の音だけが聞こえるが、チリンの姿を見たことはない。

結局、伊集院は「のほほんと殺されるのを待て」という以上の教訓は得られないのかと一旦疑問視し、作品世界をやなせの「心の闇/病み」と結び付けつつも、「高みに上ることによる孤独に対する覚悟」、「母と子の愛」といったテーマを作品から読み取ったようだ。

サンリオのウェブサイト「goo映画」などのあらすじ紹介・解説はいずれも、いわゆる「普遍的なテーマ」を作品から抽出する語り口になっており、また、「オオカミに負けない強いひつじになるため」「復讐の念に燃えた」など、個人(個羊)の内面から作品を読解するモダニストな立場に専心している。

伊集院の要約は、このような道徳的・教育的な立場に囚われていないため、これらの要約に比べると、作品そのものを型にはめない素直な要約になっていたということが後に判った。伊集院は、作品と彼自身の感受性の相克から語りを紡ぎ出し、また、作品を伊集院の個人史(とりわけ家族関係)のインデックスとして使いながらフリー・トークを組み立てていた。

しかし、伊集院が『小さなジャンボ』の中で起きる戦争について図らずも説明するのを聞いてふと感じたのは、実は『チリンの鈴』のほうも、やなせの戦争体験と密接に結びついているのではないかということだった。

『チリンの鈴』ストーリーを戦争という時代背景との対位法で読み解いてみると、次のような見取り図が浮かび上がってくるかもしれない:

やなせ自身が戦争で母親を失ったかどうかは定かではないが、狼に母羊が食べられるという話は、少なくとも戦争による損失一般のメタファーとして捉えることはできるだろう。

まず、1919年生まれのやなせは、1941年に日中戦争に徴用される。従って、この時やなせは22歳で、じゅうぶん大人であるため、チリンとやなせがどれだけ重なるかは判らないが、狼と共に行動し姿かたちを変貌させていくチリンは、戦争の体験を通じて自我を形成(あるいは再形成)していく戦時下の青少年のメタファーと言えるだろう。

次に、牧場を襲う狼ウォーとチリンが行動を共にするというストーリーを考慮すると、「狼」は、アメリカをはじめとする連合国といった具体的な敵というよりは、戦争そのものを戯画化したものだろう。初めは、自分たちの平和な生活に脅威をもたらすものとして目の前に立ち現れた戦争に、「自発性の発揚」の場を見出していく戦争当事者の自我の在り様が見て取れる。

そして、チリンの後の人生(もとい羊生)を決定付ける存在である狼の名前の「ウォー」が、おそらく狼の鳴き声の擬声語であると同時に、 "war" と同音であることは偶然ではないと思われる。

さて今度は、自分の戦争経験を1987年に描くやなせたかしに着目し、彼がそのような立場から何を描こうとしているのか(エドワード W. サイードの言うところの「姿勢と言及の構造」)を読み解くと、このようになるかもしれない:

チリンが狼ウォーを倒すという行為は、戦争や軍国主義といった戦時の価値観との決別・清算を示唆しているだろう。とはいえ、狼を倒すチリン自身が異形の化け物であるという事実は、決別・清算がする主体が、戦争について決して無謬でないことを物語っている。そして、戦争が終わっても(狼が死んでも)牧場に受け入れられることはないチリンの姿は、戦争を否定しつつも、かつて戦争の一翼を担った者としての悔悟の念というスティグマを背負おうとする、やなせの同時代的な覚悟の表れかもしれない。

また、悪を純然たる悪として描かない筆致は、抽象的な悪を客観的に描くのではなく、自分が具体的に経験した悪を自らの視点で描くための必然的なアプローチと言えるだろう。

(ちなみに言えば、今やタイムレスな作品として親しまれている「アンパンマン」シリーズにおいて、餓えを満たすことがストーリーの基軸となっているのもおそらく、やなせの戦争体験と根底では無縁でないだろう。)

もちろん、伊集院の語りの姿勢は若者向け深夜放送においては100点満点だった。しかし、『チリンの鈴』には、伊集院が受け取って発信した以上のものが深淵に眠っているように思える。

[附記]
『チリンの鈴』を実際に見てみて、作品とやなせの戦争体験を直接結び付ける見立ては、やや読み込み過ぎかもしれないと思われた。しかし、作者の意図だけが作品の真実だとは思わないので、影響を完全に否定するのはもったいない。したがって、撤回せずにおくことにする。

ところで、『時代の証言者8 「漫画」水木しげる/やなせたかし』<読売ぶっくれっと48>(読売新聞社、2005年)で、やなせは、「僕はもともと大人向けの漫画を描いていたので、クマちゃんが出てきて、滑って転んでみたいなものは書けない」と語っている。『チリンの鈴』にもそうした意図がはたらいているのかもしれない。

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